« 2004年9月 | トップページ | 2004年11月 »

2004/10/31

母のミシン その1

考えて見ると、ミシンは不思議の固まりのようだ。
糸巻きから引き出した糸を、何の必要があるのか、あっちこっちに引っ掛けて、紆余曲折を繰り返した後に、ようやく辿り着いた針に通す。そして、はずみ車をゆっくりと回すと、おもむろに針が小さな穴に下りてゆく…。さらに、下に向かって下りていた針は、頃合を見計らったかのように、今度は上に上がって来る。すると、何と言う事だろう、元に戻った針に導かれるように、見事に穴から下糸が顔を出す。後は、上糸と下糸の間に布を挟んでミシンを動かすだけで、整然とした縫い目が現れる。その間にも、台から遠慮がちに突き出した何かギザキザの付いたモノが、陰でせっせと布を移動させている。……これを不思議と言わずして何と言おう。

私には、未だにこの仕組みが分らない。エンジンのシリンダーのように、踏み板の上下運動が回転運動に変換されるまでは理解出来るが、それから先は、私の理解の範疇を越えている。(ボビンケースの中で、どうやって上糸と下糸が絡まるのだろう……?)
勿論その他にも、身の回りには仕組みが分らない物ばかりで、こちらはただその恩恵に与るだけだ。しかし、それらの殆どが電気の力に頼っているのに比べ、ミシンの原理は純粋に力学的なものだ。そして、現在でも基本構造はあまり変わっていないのだろうから、これはもう、人間の技術の粋を集めた究極の姿と言ってもいいのではないだろうか。その、先人の知恵には畏敬の念すら覚える。

大人になっても分らないのだから、子供の頃は尚更だ。ミシン掛けする母にまとわりついて、飽かず眺めていたものだった。そして、その不思議な機械をいともたやすく扱う、今よりも若い母がそこにいた。
あの頃は、自分ではどうにもならないような困難な事も、母に泣きつくと不思議と大概の事はケリがつくのだった。

今でも、「エ?」「ひえー!」「ウソ!」と、叫んでしまう私は、子供の目にはどう映っているのだろう。

1027safinia.jpg 

  
 あんなに暑かった夏を乗り越えた、
 テーブルのコンテナも
 そろそろ冬用とバトンタッチ。
 感謝を込めて、パチリ。
 

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2004/10/28

名作「足長おじさん」

「赤毛のアン」や「若草物語」等、昔から女の子に読み継がれてきた名作は色々あるけれど、今回は「足長おじさん」について……。

子供の頃は読書自体に興味がなかったし、ましてや女の子向けのお話を読もうとも思わなかった。だから実際に読んだのは、大人になってからで、たまたま家に文庫本があったからという単純な理由からだった。(それでも随分前の事とて、この前探したけれど見付からなかった)

退屈しのぎに読み始めたものの、面白さに一気に読んでしまった。ストーリーは言うに及ばず、主人公のキャラクターや物の考え方が、とても新鮮で魅力的だった覚えがある。当然その発言も興味深いものが多く、その時はいたく感じ入ったのだけれど、残念ながら今となっては殆ど忘れてしまったらしい。ただ、今でも憶えている言葉にこんな一節がある。

「人生の一大事を乗り越えることは出来ても、日常の些細な煩わしさを、笑ってやり過ごすのは難しい」確かそんな意味だったと思う。その文章を読んだ時には、「ウーンなるほど!」と唸ってしまった。確かに「ここぞ!」という一世一代の危機に直面すれば、誰でも頑張らざるを得ないが、それ以外の日常生活は煩雑な雑事で占められている。中には嬉しい事もあるけれど、しなければならない「ウザい」事の方が多い。そんな日常では、婉然と微笑んでばかりはいられない。

つまらない事に、一々こだわって悶々としている私。
「悠然」とまではいかなくても、せめて「泰然」とした、そういう人に私はなりたい。

10_26otiba.jpg

 
 
 掃いても掃いても翌日には元通り。
 落ち葉掃きって、ちょっと徒労感。
 
 
 ブログ:ココログ:トラックバック野郎:@nifty
 にトラックバックさせて頂きます。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2004/10/26

雨ガエル

今までにもHPのコーナーで、うちのバルコニーに住み着いている雨ガエルの写真を、何度か掲載して来たけれど、今回はそのカエルをご紹介したい。(嫌いな方がいたら、ゴメンなさい)

特にカエルが好きとかではないのだけれど、バルコニーに出る度に顔を合わせていると、情が移るというか、居ないと心配になって、あちこち探してしまう。生き物好きの私も、さすがにガマガエルとかは不気味で嫌いだが、雨ガエルはフォルムもシンプルで嫌いではない。ただ、当然苦手な人もいて、以前うちのバルコニーでカエルを目撃し、「いいの?」と、おっしゃった人がいる。「え?何が?」と聞くと、「潰さなくていいの?」と、のたまう……。潰す方がよほど気持ち悪いと思うのだが、やはり人それぞれだ。

昔は、池を置いていた事もあって、何匹も見かけたものだった。何処からやって来るのか、初夏になると生まれたての子ガエルも加わるのだが、1センチにも満たないその姿は、思わず根付にしたくなる程可愛らしかった。そして、夏には丸々と太り、一人前になっていく様子を眺めるのも面白かった。
その池も無くなり、最近では1匹だけになってしまったけれど、それだけに愛着も増し、「モズに狙われなければいいけど……」と、心配までしている。(以前、バラの枝に「百舌鳥の速贄」をされた事があったし……)今年は、何年ぶりかで小さな子ガエルも現れて、新顔に期待していたのだけれど、結局それきりになってしまったのが寂しい。

そろそろ寒くなり、冬眠したのか姿が見えないが、また来年の春に会えるのを楽しみにしている。

924kaeru.jpg 825kaeru.jpg

左:なんとも気持ち良さそうで、うらやましい。
右:ハンギングから、ちょこんと顔を出しているのがわかりますか?

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2004/10/24

ケリ−バッグ

バーキンなるバッグが大人気だ。中古品販売のお店では、定価よりも高い値段で引き取ってくれるという。
いったい日本経済はどうなっているのだろう。と思ったりするが、しっかり需要と供給の法則にのっとっているのだから悔しい。

とか言いながら、ケリ−とバーキンの違いに気が付いたのは最近の事。(私はケリ−の方が好き♡)以前、どなたかが「あんな開けにくいバッグは、自分でサイフを持たない女の物だ」とおっしゃっていたが、それは言えていると思う。(でも、くれるんなら喜んで貰う)

ハイソな方は、きっとお付きの人がよしなに取り計らって下さるのだろう。その点、私の様な一般庶民は、自分の事は自分で何とかしなければならない。ハンカチ・ちり紙は勿論の事、電車の中でセキをしたら嫌がられるだろうと、この季節、のど飴は欠かせない。そんなこんなを考えていると、あっと言う間にバッグの中は一杯になってしまう。(以前、知り合いの女性は「あったしなんか、所帯道具一式を持ち歩いてるもんネ!」と健気に豪語なさっていた)

良く知られているテーブルマナーで、『落としたカトラリーは自分で拾わずに、給仕の人に拾ってもらう』というのがあるけれど、それが全てを表していると思う。
お嬢様は、「あら、どうしましょう」と鷹揚に構えていれば、ボーイさんが飛んで来てくれる。しかし、私は自分で拾いたい衝動をこらえるだけで精一杯だ。ウチの子が幼い時など、落とした食べ物さえ口に入れようとするのが不憫であった。

身の丈にあった生活をしていればこそ、たまの贅沢に価値がある。そう自分を慰めている私は、セルフ・サービスのお店が一番くつろげたりする。

bakopa.jpg バコパのように、白い小花に心惹かれる。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

nezimakiさんへの手紙

昨日はnezimakiさんのブログへのコメントで、断末魔の叫びと共に消えてしまいましたが、あまりに惜しい話題ですし、長くなりそうなので、あらためてこちらで。

まず、ベジェ曲線。これは「慣れ」しかありませんよね。アンカーポイントから引き出されるハンドルは、力と方向を合わせ持った、「ベクトル」の様なものですよね。「アンカーポイントの間に張られたワイヤーがそのベクトルによって変型されている」と考えると、感覚的に掴みやすいと思います。

ところで、今までの文面からも感じていたのですが(紙が湿るとか)、nezimakiさんは印刷関係のお仕事をなさっていたんですね。DTPの難しさは、作ったデータを如何に製版フィルムまで持って行くかだと思いますが、その前提として、入稿出来るデータにしなければなりませんよね。そのチェックをなさっているのでしょ?でもそれなら、マックでデータを開いていると思うのだけれど……。だとしたら「DTPはマック」の理由は御存じの筈だし、釈迦に説法になってしまいますが、私がDTPを勉強したのは数年前の事だし、間違えて覚えているかもしれないので、確認の為に……。(それともPDF入稿?)

「フォントはホントに難しい」とダジャレのように言われますが、まさにそれに尽きると思います。私はデザイナーの仕事はしていないので、あまり偉そうな事は言えませんが、確か入稿出来るフォントはポストスクリプト(中でもタイプ1)。それを扱うためにはどうしてもMacが必然だったのです。
また、余りに多くの編集ソフトがあるウィンドウズでは、印刷会社が対応出来なかったという理由を聞いた事もあります。(マックには、nezimakiさんが仰っていたイラレ・フォトショ・クォーク位しかありませんでしたし……)

ソフトに依存しないPDFで入稿出来るようになった現在では、ウィンドウズでも可能なようですが、ウィンドウズの場合、フォントはトゥルータイプになると思います。(マックの場合、解像度にプロテクトがかかっているので、事実上使えません)今後のウィンドウズでの入稿の拡大の可能性は、いかにトゥルータイプ・フォントの種類が増えるか、にかかっているのではないでしょうか。
ウィンドウズでの入稿の、潜在的な需要は測りしれないでしょう。その時が、マック派の私には恐ろしい。

追伸
パソコン音痴の私が、ここまで理解するのにどれ程の苦労があったか、御想像下さいませ。(涙)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/10/21

ブログ始めました

一月程前から、ニフティのブログサービス「ココログ」を始めてみたのだけれど……。
ブログという言葉を知ったのは今年になってから。その時はHPとの違いがイマイチ実感として理解出来ず、知識としてのみ、その言葉がとどまっていただけだった。でも、時々覗いている内になんとなくその面白さが分かって来て、無謀にも始めてしまった次第。

始めてみて、改めて実感したのが、「人と情報が素早くリンクしていく」という特徴。それは、明らかに今までのHPの概念とは違う。
まるでフクロオオカミと狼が、同じ様な外見をしていても、根本が違う有袋類と哺乳類であるように、ブログは一段と進化・特化したものの様に見える。
それゆえに、今までよりも高度で専門的なエチケットと責任が求められるようで、システムを知らないと気付かない事も多く、初心者の私は随分失礼な事をしてしまった様で恥ずかしい。(「礼儀」という根本で考えれば当然なのだけれど、慣れないとそこまで思い到れない)

でも、カテゴリ別の検索や、過去の記事が整理出来る利点は、私には垂涎もの。しかも、30Mという容量はありがたい。この日常雑記も、元々は自分のHPで始めたのだけれど、ゆくゆくはこのブログに移行しようと目論んでいる私。ただ、HPの方でもせめて一年分はまとめておきたいという気持ちもあるし、今の所は同時進行になりそう……。しばらくは暖かく見守って頂ければ嬉しいのだけれど……。

susuki.jpg 秋風に揺れるススキの穂

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/10/19

食わず嫌い

私は、食べ物の好き嫌いが多い。大雑把に言うと、野菜や果物はいいけれど、肉類は、豚や牛などポピュラーなもの意外は苦手。そして、魚介類はサンマと塩鮭、あとはマグロの刺身くらいだろうか。
好き嫌いというと、「わがまま」と思われがちなので一言弁解すると、野菜でもまずいと思うものはある。でも「まずい」物は我慢して食べられる。しかし、いくら味が「おいしい」物でも、馴染みのない肉や魚は、残念な事に、私には食べ物と思えない。

これでもマシになった方で、子供の頃は肉は一切ダメで、サンマの干物とアサリの味噌汁位しか食べられなかった。どうも「生き物」を食べるという事が納得出来なかったのだ。(植物だって生き物だろうと思われるかもしれないけれど、脳みその有る無しが大きい。魂と言い換えても良い)給食で、無理矢理食べさせられた記憶が無いのは幸いだったが、今で言う菜食主義者の心境だろうか。
だから、小学校で「人間は体内でタンパク質を作れない(全部の、ではないらしいですが)」と教わった時の衝撃は大きかった。ベジタリアンという言葉など無い時代、「人は、他の『生き物』を食べなければ生きていけない」という事実は、私を打ちのめした(「でんぶ」や「ソーセージ」が魚の加工品だと知った時と、どちらが早かっただろうか……)そして、それからは、観念して少しずつ食べるようになっていった。
学生時代の事だ。アルバイトのお昼休み、皆で焼肉を食べに行く事になった。その頃はまだ、ハンバーグの様なひき肉料理しかクリアしていなかった私は青ざめた。「あんな肉の固まりを食べられるだろうか……」だが、恐る恐る食べたその味は、大変に美味であった。

食わず嫌いは本当に損だ。「おいしいものを食べる」というのは、人生の喜びの中でもかなり大きな比重を占めている。味覚の秋だというのに、自らその楽しみを捨ててしまうのは勿体ない話だ。
そう頭では分かっているのだけれど、「まあ、この位食べられればいいかな?」と、今では自分で自分にマルをあげているのだった。

aki_yuyake.jpg 鮮やかだった先日の夕焼け

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2004/10/17

カメラ付きケータイ

先日の運動会で驚いた事があった。カメラを構える私の周りの人達は、皆ケータイを突き出して写真を撮っていた。カメラ付き携帯電話の人気は聞いていたが、これ程とは思わなかった。(中学校の運動会ともなれば、見物する親の数自体少ないし、幼稚園や小学校時代より明らかにテンションが下がっている。まあ、「せっかくだから写真でも……」程度のノリだとは思うけれど、それでも運動会には違いない)

そう言えば、街角の様子を伝えるテレビのニュースで、たまたまちょっとした地震が起きた事があった。その時、画面に映っている通行人が皆、やにわに携帯を取り出してメールを打ち出したのには、ビックリを通り越して不思議なものを見た様な気がした。(思わず、ヤラセか?と疑ってしまったくらい)
携帯人気のせいで、デジタルカメラの売れ行きが落ちているらしいけれど、それも仕方がないのかも知れない。私も、HPに掲載する写真を気軽に撮りたいと思い、安価なデジカメを買ったけれど、120万画素のそれで撮った写真は、ディスプレーで見る分には不満がない。それなのに、今のカメラ付き携帯はそれ以上の画素数を誇っているのだから、充分カメラ代わりになるのだろう。
家族揃って外出する時、「カメラを持って行こうかな?」と思う事があっても、ついつい面倒になってやめてしまう事も多い。(たいてい、後になって後悔するのだけれど)その点、携帯なら常に持ち歩いているのだろうし、シャッターチャンスを逃す事もない。

以前話題になった「Beautiful Life」というテレビドラマで、こんなシーンがあった。「おい、写真機持って来い」と言うお兄さんに、主人公が「やあねえ、カメラと言ってよ」と言うのだが、それを聞いてショックを受けた。その時、「写真機」という言葉に違和感を感じなかった自分に愕然としたからだ。(子供の頃父がよくそう言っていた)

さすがの私も自分ではカメラと言うけれど、そんな私にとっては、運動会の写真をケータイで撮るという現実が、なにやらSF小説の光景のように感じられたのだった。

inutade2.jpg 道端のイヌタデ

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2004/10/14

電話無情その2-電話無常

電話の進歩には目を見張るものがある。
電話というものが一般家庭に普及しだしたのは、私が小学生の頃だった。生徒名簿に電話番号の覧が出来たのは、中学になってからかもしれない。運動会や、遠足の延期の決定等、学校から各家庭への緊急の連絡は、今では電話での連絡網が当たり前だが、その当時はどうしていたのだろう。(運動会当日の花火がその名残りだろうか)
また、テレフォンカードもコレクターが現れる程普及したけれど、携帯人気に押されて公衆電話そのものが減ってしまった。今では電話ボックスを探すのにも苦労するほどだ。(ケータイの前にはポケットベルなる存在があったのを覚えていらっしゃいます?)

私は基本的に、月々の使用料が掛かるものは使わない事にしている。一つ一つは微々たる金額でも、全て合計するとバカにならないし、年間では結構な額になる。(このブログもHPも無料サービス♡)当然、携帯も例外ではなかった。しかし、頼りの公衆電話が無いのだから仕方がない。やっと見付けても、私と同じ様な人がいるらしく、先客が長話していたりする。仕方がないので、しぶしぶピッチを持つ事にしたが、(家内のお古)本当に困ってしまう。その携帯も、カメラ付きは当たり前だし、次世代携帯なるものが現れたと思ったら、最近ではテレビ電話だそうで、私などもう浦島太郎状態だ。

若い頃は、機械に弱い大人達に苦笑していたけれど、いつからか、私も同じになってしまった。今では、簡単なビデオの取説を読む事さえ億劫な体たらく。どうも脳細胞が技術の進歩を受け付けなくなって来たらしい。(固まったパソコンを再起動する時には、ディスプレーに向って拝んでしまう)

これからも技術が進歩すれば、どんどん新しい機器が増えてゆくのだろう。しかしそれならば、こんな私でも簡単に使えるものであって欲しいと、切に願うこの頃である。

1012koyo.jpg 染井吉野の葉が色付きだすと、なにやら寂しくなる。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/10/10

電話無情

テレビなどを見て寛いでいる時に、プルルル……と、電話が鳴り出すとドキッとする。

フリーで仕事をしていると、仕事の依頼は大体電話から始まるので、電話=仕事の依頼という確率が高い。電話に向って歩きながらも、頭の中は仕事モードに切り替わろうと、必死でアドレナリンを放出し始める。そして、覚悟を決めてから受話器を取る事になる。

昼間、仕事部屋で電話を取る時は、既に仕事モードになっているので、比較的簡単に「お世話になっております」と言えるけれど、さっきまでテレビを見ながらゲラゲラ笑っていた様な時には、この切り替えが結構しんどい。だから、相手が家内の仕事先の人だったりすると、「ああ、自分でなくて良かった」と、本当にホッとして、相手が天使のようにさえ感じられる。当然、「少々お待ち下さい」という声も、心のこもったものとなる。(だって、心の底から有り難いと思っているんだから)そうなると青ざめるのは、さっきから聞き耳を立てて身構えている家内の方だ。入れ違いに電話に向う頃には、立場は完全に逆転している。

昔ながらの小さなお店では、お客の呼び掛けに、奥から店主が出て来て「はいはい、いらっしゃいませ」となるが、丁度そんな感じなのだろう。ただ、お店なら営業時間があるし、シャッターを下ろしてしまえば済むので、その辺がちょっと違う。お風呂に入ろうと裸になった時や、ビールを注いで、さあ夕飯!という時には、さすがにこたえる。

しかし、これも自宅で仕事が出来るという、究極の職住接近のメリットにはかえられない。
そして、今日もまたプルルル……という電話の音に固まりながら、お互いの目を見交わすのだ。

106cosmos.jpg 道端のコスモスも、いつの間にか背丈を越えて。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2004/10/07

名言・格言・座右の銘

辞書を引くと、座右の銘とは「常に自分の心にとめておいて、戒めや励ましとする格言」とある。普段は取り立てて意識してはいないけれど、出口の見えない焦燥感を感じる時、「朝の来ない夜はない」と自分に言い聞かせたり、事に当ってはたと迷った時、「急がば回れって言うし……」と、そんな言葉を指針にしている自分に気付く時がある。それは、「七度計って一度切れ」とか、よく考えてみれば、子供の頃から散々親に言われていた言葉だったりもする。

「千里の道も一歩から」、「狭き門より入れ」。等々、名言・格言と言われるものは、耳に痛い事が多く、疎ましく思える時もある。幼い頃はその意味さえ分からず、成長してからも「そんな立派な事をいわれてもネエ……。」と反発すら感じていた。ただ、今に伝えられているだけに、一面の真理を突いているのも確かで、「良薬口に苦し」と、最近では素直に受け止められるようになった。

「狭き門より〜」で言えば、私の様な怠け者は、ついつい楽な方を選びたくなる。嫌な事を避けてばかりいると、ほんの些細な事でさえ嫌になるし、面倒だと思えば、朝、顔を洗う事さえ、はしょりたくなる。果ては、生きる事さえおざなりにしてしまいそうなので、日々自分を鼓舞して、なるべく「狭き門」から入ろうと努力している(つもり……)。

数年前の事、新聞の投書欄で、またまた心にグサッとくる言葉に出会ってしまった。
「老いた者は過去を語り、弱き者は自分を語る。」……ですと。
このブログで両方語っている私は、一体何者なのだろう……。

トラックバック
もげきゃっち: 座右の銘ってありますか?
@nifty:ブログ(blog)サービス「ココログ」:トラックバック野郎: ザ☆座右の銘

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/10/03

キンモクセイ

ふと、漂ってくる香りで、「ああ、もうあの花が咲いたんだ……」と気付く時がある。その代表的なものは金木犀だろう。梅の香りは、ほのか過ぎて近付かないと分らないけれど、金木犀はある日突然匂い立ち、ドアを開けて一歩外に出ただけで、それと気付く。そして、「もうそんな季節になったのか……」と、ある種の感慨をいだかせる。

芳香剤として、余りにポピュラーになってしまったために、「トイレの匂いだ!」と言う子がいると聞いた事もあるが、残念な話だ。バラやストック、ダチュラ等もかぐわしいけれど、とてもこれにはかなわない。インパクトでいえば栗の花もそうだが、雨上がりに、栗の木の下を通った時に立ちのぼる、独特のむせ返るようなそれは、じめじめした空気と相まって、あまりよろしくない。

黄金色の小花が、葉の付け根にびっしりとたわわに咲く様も美しい。普段は、それと気付かれずに佇んでいても、花の時期には他を圧倒するその存在感は、桜をも思わせる。
10月の初旬に漂う金木犀の香りは、秋だという事を改めて実感させるけれど、もの寂しい季節を、ちょっぴり嬉しくもさせてくれる。
sasie.jpg 花はまだ。なれば今回はイラストで。
トラックバック
ポージィの花etc.記: 金木犀のかおり
すずめの巣: 木犀

| | コメント (4) | トラックバック (1)

« 2004年9月 | トップページ | 2004年11月 »