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2006/01/31

ベッドタウン

1_12edaトランス雑記その5

私が子供時代を過ごしたところは、ターミナルの駅周辺を除けば、まだまだ田舎だった。

通っていた小学校は、ローカル線の駅を越えてしばらく行った所。
当時そのあたりは、あちこちに雑木林が残っていた。

学校帰りには時々寄り道をして、いつもとは違う道を歩いたりしたけれど。
学校と駅の間の雑木林を抜けて、少し下りた所にその一画はあった。


木々の間から、まさにこつ然と現れるその場所は、新興住宅地。

高度経済成長真っ盛りの頃だから、ベッドタウンの走りだろうか。
庭には緑の芝生が植えられ、別荘によくある白いペンキ塗りのウッドデッキまであって。
外国ドラマでしか見た事がないようなその風景は、私には眩しく映ったものだった。

当然、そこに住んでいる子供達の何人かは同級生に。

でも、その子達は垢抜けていて、自分達とはどこか違って見えた。
つまり、都会の匂いがしたのだ。


国語の時間、そこに住んでいる子の詩が皆の前で朗読された事があった。
休日の昼食用に、お母さんがコロッケを作る様子を綴ったものだったけれど。

「揚げたてにソースをかけると、ジュージュー音を立てて美味しそうだ」
という詩だったのを今でも覚えている。
なぜなら、お昼にコロッケを揚げると聞いて、びっくりしたからだ。

昔気質(かたぎ)のウチの母は、煮物や漬け物は得意だったけれど。
揚げ物は天ぷらくらいで、私はコロッケは買ってくる物だと思っていた。
しかも、お昼は有り合わせのもので、と相場が決まっていたのだから……。

自分とは違うそのライフスタイルにも、カルチャーショックを受けたのだった。


田んぼが残る郊外とはいえ、一応都内に住んで。
当時とは比べ物にならないほど、便利な家電品に囲まれた今の生活。
そして、家内は当然のようにコロッケを揚げている……。

それでも、子供時代に感じたあの「憧れ」。

それは、今でも私の中にある。

'04年7月16日

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2006/01/28

青と緑の狭間で

stro_biora子供の頃、伯父の家に行った時の事だ。

私が、そこにあった緑色の灰皿を、「あお」と言ったら「これは緑色だよ」と訂正されてしまった。

「そりゃそうだけど、大人はこんな色の事を『青』っていうくせに……」
その時、釈然としない気持ちになったのを、よく覚えている。

「『青』と『緑』はあんまりうるさく区別されない」
子供心に察していたそんな「お約束」を、反故(ほご)にされたような。
うまく言えない、もどかしさを感じたのだった。


この話題になると、青信号も実際には緑色、なんてよく言われる事。
(最近は発光ダイオードの信号になったりして、随分改善されたのかもしれないけれど)

実際、人間の目はオレンジ色から黄色、黄緑色にかけては、かなり識別できるそうだ。
それが逆に、緑から青緑、青にかけては見分けにくいんだとか。


それだけ微妙な「青」と「緑」。
それが言葉で使われる時。その曖昧さはより顕著になる。

「目に青葉」とか「青田刈り」とか、平気で言われるし。
こんな、葉の緑を青にたとえた言葉では、他にも「青くさい」、「青二才」なんかも。
果ては、馬の青味がかった黒い毛色を「青毛」といってみたり。

なんか「青」の独壇場みたいだけど。
馬が「青毛」なら、人間は「緑の黒髪」なんて言うし。
「緑風」、「緑道」とか、「緑子(嬰児)」なんて言葉まであって、どっこい緑も健闘している。


こうなってくると、もうなんでもアリではないか。
(緑色の背をした鳥、「アオゲラ」は「緑啄木鳥」って書くんだからビックリ)
結局ゴロがいい方になってるのだろうか?

誰が子供だった私を責めらりょう。

……伯父さん。
子供の私が言いたかったのは、そ〜ゆ〜事だったのであります。
 

gurade
●便宜上
C(シアン)
M(マゼンタ)
Y(イエロー)の
%で表してみました。
 
 
↓「緑の黒髪」についての面白いお話のサイトさんを教えていただきました。
緑の黒髪/信号の青

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2006/01/25

さわやかな汚物清掃

1_12light1ホームに電車が入ってくる。
そして、速度を落とし止まろうとするそれのドアを目で追う。

そんな時、比較的空いている車両が自分の前で止まると、それだけで「ラッキー♪」なんて思っちゃう。
これで、真ん中あたりのドアなら言う事なし。(不思議と端っこのドアに当って、ガッカリする事の方が多いけど)

ただ、喜んでばかりはいられない。
他の車両が超満員なのに、そこだけガラ空き……。なんて場合は、かなり危険だ。

そう、誰もいない真空地帯の真ん中には、たいてい原因があるから。

たとえば、激臭を放ってる御仁がそこに座ってたり、横になって寝てたり。
大抵ドアが開いた瞬間に、漂って来るその異臭で「シマッタ!」と悟るんだけど。
(もっとアブナイのは、その後。知らずにそこに座ったりすると、一斉に哀れみのこもった視線のシャワーを浴びる事になっちゃう)


考えられるもう一つの原因は。
……ご想像の通り。(お食事前の方はスルーして下さいませ)

車庫に帰ってから清掃するんだとは思うけれど。
それまでは、一体どうするんだろう。
その漠然とした疑問の答えを、去年の暮に目撃する事が出来た。


それは仕事先の忘年会の帰り道。
例の場面に遭遇した。
ただ、いつもと違うのは既に駅員さんがいらしてた事。

一人は、その物体にオガクズのような物を撒いてらっしゃる。
(ちょうどホウキで畳を掃く時、絞ったお茶ガラを撒くみたいに)
そしてもう一人が、それをホウキでチリ取りに。
……な〜るほど。これでサッパリ!

残された問題は、シートに付いた汚れ。
おもむろにそれを布で拭き取った後、消臭スプレーを吹き掛けて、防水加工が施されてると思われるシートを被せていく。(フックの付いた片側を座席の下に引っ掛け、反対側を座面と背もたれの隙間に押し込めばおしまい)

それら一連の動作が、駅に停車している間に行われたのだから驚く。
しかも「汚物清掃のため停車しております。しばらくお待ち下さい」
というアナウンスまで。

細やかな心配りと、テキパキとしたその行動。
そして最後には、「お騒がせしました」の言葉まで……。


慌ただしい年の瀬に、初めて見たプロの技。
よどんだ車内に、一服の風が吹いたよう。

その手際の良さに、ちょっと爽やかな気分になったのでありました。

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2006/01/22

差し油

06_1_21yukiトランス雑記その4

揚げ物をした後に残った油の始末。
これは、大体皆同じだろう。

油こしでろ過した油を、それ専用の容器に溜めておく。そして、次回使う時に減った分を新しい油で補う……。

それを数回繰り替えして、もうダメかな……?
という頃合を見計らって「固める〜」や「吸わせる〜」で処理をして捨てる。
(中には、廃油から石鹸を作ってしまうツワモノもいらっしゃるけれど)

一回使っただけで捨ててしまうのはもったいないし。
確かにそれは理にかなっているそう。

新たに差し油すると、油の鮮度が元通り。
とまではいかなくても大分回復するらしい。


ある時、知人と会話していた時のこと。
「自分の事を棚に上げて、他人を非難しないように気をつけなきゃね」
と、自戒を込めて言ったところ。

「少しは棚に上げないと、足の踏み場が無くなっちゃいますよ」
と言われて、目からウロコが落ちる思いがした。

ただでさえ狭量な私。
そうしなければ、行き場を失った物で足の踏み場が無くなる、というのも理解出来る。
許容量を越えたものは溢れてしまうだろう。(見抜かれていたのだろうか……)


大人になってしまうと、自分なりの思考回路が出来てくる。
そして、それまでの経験から「それはこうだろう」という価値観で固まってしまう。
人との会話は、そんな固定観念に風穴を開け、新鮮な空気を運んでくれたりする。

そういった、目から鱗の経験。
それは、思考の「差し油」とも言えるのではないだろうか。


たしかに差し油にも限界がある。
完璧にリセットは出来ないだろう。

しかし、ずっと付き合って行かなければならないこの頭なら。
せめて少しでも長く、しなやかさを保っていたいものだ。

……大事に使えば、一生使えますものね。

'04年9月19日

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2006/01/19

勇気・心・知恵

1_12kareki世間のしがらみや、義理とか言われるもの。
社会生活を営んでいく上で、それらは避けて通れない。

でも、日々の生活に追われていると、時々無性に煩わしく感じたりして。

そんな時、「無人島で一人暮らししてるワケじゃないんだし……」
なんて呟いてみる。
ウザかったり、鬱陶しく感じても、それは何かとつながっている証しに他ならないんだから。


無人島での生活はどんなものなのだろう、と想像してみる。

周りの世界から隔絶され、たった一人の自分。
そしてその、たった一人の自分の存在にさえ、誰にも気づかれずにいる。
これは、ちょっと耐えられない。


以前、北海道をマウンテンバイクで走ったと言う友人の話を聞いた事があって。
何もない原野、どこまでも続く一本道を走っていると、向うからやって来る対向車のヘッドライトにも心安らいだのだそう。

その灯は、まぎれもなく誰かがそこにいるという事。

自分とは何の関係もない誰かなのに。
そんな事にさえ、人恋しさを感じるとは。

それが、「人間は社会性の動物」と言われるゆえんなのだろうか。


もちろん、自分がどうしても受け入れられないものならば、迎合する必要はないし、それ自体を変えていく努力も必要なのだろう。
しかし、それがどうしても変えられないものならば……。

……それを受け入れられる自分に、なるしかないのかもしれない。


これは、ブログを始めたばかりの頃に知った言葉なのだけれど。
アメリカ・インディアンにもこんな教えがあるそう……。
(今回リンクを辿ってみても、その方のサイトは見つからなくて)

変えられるものを変える勇気
変えられないものを受け入れる心
その違いがわかる知恵

……その深い精神性には驚かされるけれど。
私は、その知恵が欲しいと切に思う。


風車に立ち向かう、ドン・キホーテじゃ哀しいし。
妥協するべきでないものに妥協してるのだったら、もっと哀しいから……。

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2006/01/16

群青色を探して

gunjo群れた青と書いて「ぐんじょう」。

様々な「青」が幾重にも重なりあったような、深みのある青。
刻々と移り変わっていく夕暮れの、黒に変わる前のつかの間の色。

それが時を止めて、固まってしまったような。


子供の頃持っていたクレヨン。
そこには、「ぐんじょういろ」と書かれた1本があった。
それはなぜか好きな色で、「みずいろ」や「ももいろ」と共に、他の色より早く短くなったものだった。

大人になるにつれ、それに「薄紫」や「ペパーミントグリーン」が加わって。
好みの色も変わっていったような気がする。

でも、そんな中で、決して一番にはならなかったけれど。
「紺色」でもなく「藍色」でもない「群青色」は、常に五本の指に入る「外せない色」だった。

そして、その漢字が「群青」だと知った時、それは決定的なものになった。


そんな思がつまった群青色。
今まで何度も、この色をテーマに書こうとしたんだけれど。
どうしてもできなかった。

それは群青色が、自分の中の「あの」群青色ではなかったから。

以前、利休色の記事でも書いたけれど、色にも規格がある。

ただ、それも色見本によっては全く違う色だったり。
特に「紺色」「藍色」「群青色」は、私が思っていた色とは違う。

コバルトブルーのような鮮やかさはないのに。
不思議とそれより透明で。
ウルトラマリンブルーより、ずっと深みのある色。


なにか記憶違いがあったのだろうか。

好きだったあのクレヨン。
そこには、たしかに「ぐんじょういろ」と書かれていたはずなのに……。
 
jis_iro
 
 
 
●JIS慣用色名 左から群青色#384D98 紺色#343D55 藍色#2B4B65
 コバルトブルー#0062A0 ウルトラマリンブルー#384D98(群青色と同じ)

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2006/01/13

デシャヴ

1_12tetto2トランス雑記その3

「あるある、そうゆうの!」
と、思わず膝を叩きたくなる事の筆頭は、
「デシャヴ」だろう。

「既視感」とも訳されるけれど、
「前にもこんな事があった……」という例のアレ。


思春期の頃、その言葉を知って「自分だけじゃないんだ」と、安心した覚えがある。
最近はないんだけど、自分が信じられなくなるようで、あまり良い気持ちがしないものだ。

普通、それは一瞬の事。

でも、「この後も何かあったような気がする」と思っていると、また続きがあったりして。
それが結構長く続くこともあった。

「この調子で行けば未来予知ができたり?」
なんて、バカな事を考えたりしたものだけど……。
未だにできないんだから、やっぱり気のせいなのだろう。


人間がコンピュータに支配される映画、「マトリックス」でもデシャヴが出て来て。
そこでは、「コンピュータのプログラミングミス」と言っていた。
(う〜ん。お上手!)

人間が、カプセルの中でコンピュータに飼われるというアイディア。
それは、SF小説「百億の昼と千億の夜」でも描かれていたけれど。

「百億の〜」では、人間はストレスも感じずに、ヌクヌクとした自我の中で漂い続けるだけだった。


先日の新聞に載っていた、精神科医で作家の、なだいなださんのお話。
それによれば、ストレスが人間を進化させて来たのだとか。

やはり、自我のコタツの中でヌクヌクとしているだけではいけないらしい。

'04年7月19日

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2006/01/10

ベタなブログ

最近、やけに気になる「ベタな〜」という言葉。

ベタな言い方。ベタな笑い。

なんとなく、揶揄するニュアンスは伝わって来るけれど。
自分で使う段になると、やっぱ一応調べないと……。

そこで検索してみたら、この言葉がとっても分かりやすく解説されている、ブログさんの記事を見つけました。
言葉のコレクション ブログ辞典:ベタの意味 ベタなドラマ

おっしゃるところによると、ぎっしり行間を空けずに書くのを「ベタ書き」というように。

●「一面に隙間のないさま」(遊びがない)から真剣な、とか真面目な。
●幾度も繰り返され、定番になっている。
●工夫してアレンジした形跡がなく、ベッタリと踏襲している。

といったニュアンスだとか。
(う〜ん、とってもよく分かりました!ありがとうございます)

と、そこまで読んできて、ハタと思い当たった。
日常の身辺雑記だから「日常雑記」。……思いっきりベタ。
キャッチコピーの「つれづれなるままに〜」に至っては、もうベタの極致。

あらま!どうしましょ。

……でも、お正月に「初詣で」で一年の幸福を祈念したり。
年頭にあたって一年の計を立てたり。
何気なく繰り返しているそんな事も、考えてみればかなりベタな行為だったりして。


・・・ところで、ブログを続けていると、楽しい事ばかりじゃなくて。
時にはシンドくなる時も。

それでも続けているのは、やっぱりブログに魅力を感じてるから。

書き記す事によって、気持ちを整理したり。
力付けられたり、救われたり。
それが欲しくて、なんとかやって来たけれど……。


たとえば、飲み会なんかでも。
二次会になって、初めてしみじみ膝を突き合わせた話ができたりして。
これを昼日中からぶち上げるのは、ちょっと照れくさい。

でも、ブログだったらそんな話題も臆せずにできるのが不思議。
自分が模索していたのは、案外そんなものなのかもしれない。

だったら、ベタなりの良さを見つけなくっちゃ!


ベタな気分の時って、あるでしょ?

ささやかではありますが……。
そんな時には、どうぞいらして下さいましな♪
 
05_1_2jinja
 
 
 
今年は
傘を差しての初詣で。
雨のせいで参拝客も少なく
スムーズにお参りできました。 
 
 
●自分にとってのブログの意味は、人それぞれに違っても、その思いは同じですね。
トラックバック:ほほえんでいたいから: 同じアホなら 笑わな損♪

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2006/01/07

タイツ/そのよすがとしての矜持

06senryo日々の暮しの中で、ちょっとした敗北感を味わう時がある。

たとえば「サザエさん」のジャンケンとか。
(分かりやす過ぎ!)

そうじゃなくても、気取って町中を歩いてる時も。
ふいに差し出されたポケットティッシュを、思わずもらっちゃった時とか。

いや、受け取らないと決めてるワケじゃないんだけど(むしろ欲しい)。
ただ、気合いが入ってる時とか、カッコつけてる時に、ティッシュごときに心を動かされた自分が情けなくなる。(「今は会いたくなかった」みたいな?)

もちろん、ティッシュが残り少なくなって、「ラッキ〜♪」と思ったら、タイミングが合わずにもらいそこなったりしようものなら。その時の敗北感は、もっとヘヴィ。(どっちみち、ティッシュを前にすると平常心ではいられなくなるのネ)


でも、そんなのはまだ軽い方。
実は、一年に一度、決定的な敗北感を味わう時がある。

……そ、それは、タイツを履く時。(あ、言っちゃった!)

女性の場合、いくら生足がはやってても、寒くなればストッキングをお履きになるだろうし。
もっと寒くなれば、それが厚地のタイツになるのでは。
だから、案外抵抗を感じないのかもしれない。
(家内など、「寒かったら履けばいいじゃない。」の一言だし)

しかし男の場合、普段履きなれてない分、抵抗が大きい。

外から見れば、履いてるのなんか分からないし。
寒がりの私は、若い時からタイツを履かずに済んだ冬なんてないんだから。

だから、こだわる必要なんてないハズなのに……。

なにか、それまでかろうじて踏ん張っていたものが、足元から崩れさってしまうような。
たより、よすがとしていた矜持のようなもの。
それを手放してしまう寂しさを感じる。


……とかなんとか言いながら。
やはりタイツの誘惑には抗えない。

この冬も、暮にとうとう敗北宣言。28日が解禁日となりました。

ふぅ……。諦めてしまえば心も穏やか。
その、包まれるような温もりに、春を待つ間、しばし羽を休めましょ。

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2006/01/04

おせち/苦あれば楽あり

06oseti2あれは、結婚したばかりの頃だった。
(そんな時もあったのねぇ……)

張り切った家内がおせち作りに取り組んだ。

なにせ初めての事ゆえ、準備も手順も分からない。
大晦日の朝から始めたそれは、夜まで続く一日仕事になってしまった。
(それでも、煮物なんかは煮しめる時間がなくて、見切り発車でお重に)


人間は学習する生き物。
そこから多くを学んだ家内は、作業を三日に分ける事にした。

その分一日の作業量が減るし、昼の内に終わらせればウンザリしなくて済む。ってのは、大掃除と同じ理屈らしい。(なんと今回は、30日に宴会にお出かけになる、という余裕をかまされてしまいました)

その前夜に黒豆を水につける事からスタート。
29日から、日持ちする順に作っていく(そうな)。
そして、大晦日の煮物作りでフィニッシュを迎える(みたい)。

ただ、作っただけで安心してしまって、後で慌てるってのは年賀状と同じ。
出来上がったものを、重箱に詰める作業が残っているのを忘れてると、後で泣く事になっちゃう。


そこからが私の出番。
昼間はお掃除してれば追及を免れるけど、夜は逃げ場がない。
で、しっかりお付合い。

知らずに、飼い馴らされてたこの私。
(かまぼこと伊達巻きの切れ端に釣られてるのも哀しいけれど)
家内の調教の腕だけは確からしい。

料理を切り分けるのは家内、それをお重に詰めるのは、いつからか私の役割になった。

例年、その作業をするのは「レコ大」や「紅白」を観ながら。
(おととしから、それが格闘技に変わりました)
くつろいでいる時に、それをするのはチト面倒なんだけど。
食べる時の事を思えば、そんな苦労も何のその。


詰め終わったおせちを風呂敷に包み、保冷材と共に保冷箱へ。
それを北側のバルコニーで保存すれば終了。

後は「フタを開けてのお楽しみ」と、あいなるのでございました。 

06oseti3
 
 
ってなわけで
今年も
いただきました♪

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2006/01/01

年のはじめに'06

06kadomatu2あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。


新しい年が明け、お正月がやって来た。
日付けが変わっただけなのに、空気までが新しくなったよう。

リビングのドアを開け、一歩中に入る。
その冷たい空気も凛としていて、思わず背筋が伸びるようだ。

カウンターの上に目をやれば、この日のために用意した新しいカレンダーがかしこまって。
テーブルに置いた千両の赤い実も、その瑞々しい葉に映えている。


たとえば、新しいTシャツを袋から出すと、その輝くような白さに驚く。
今まで着ていたものだって、ちゃんと洗濯されているのに。
やはりどうしても黄ばんでくるし、くたびれた感は否めない。

割ってしまったグラスの替えに買った、新しいグラスもピカピカに輝いて。
それまで使っていたものとは透明度が違う。
そのつど洗剤で洗っている筈なのに、この違いは何なのだろう。


日々を繰り返す内に、気づかない程少しずつ溜まってしまった汚れ。
生活の垢のようなものがこびり付いてしまっている。

否応なく蓄積されてきた澱。

それが、すべてリセットされ、新しくスタートするような。
お正月には、そんな清々しさがある。


毎年、「今年こそ、今年こそは……」と、何度くり返して来たことだろう。
その割には代わり映えのしない自分だけれど。

せめてお正月だけは、そんな思いに賭けてみたくなる。

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