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2006/04/28

ボール投げ

Hebiitigoトランス雑記その10

ゴールデンウィークに、ウチの子に誘われてキャッチボールをした。
久しぶりの事だけれど、知らない内にずいぶん上手くなっていて驚いた。

それは、休日の親子の当たり前の光景。
でも、自分には特別の感慨があった。

子供が上手になったのもそうだけれど。
そんな事をしている自分が可笑しかったのだ。


小学生の頃、全てにオクテだった私は当然スポーツも苦手。
「どこへ連れて行っても、紙と鉛筆さえあれば大人しく絵を描いていて、助かった」
と、母親からありがたがられる程だったのだから、活発な方ではなかった。

当然、体育の成績も芳しくなく「2」だった。
(というより、当時の相対評価では必ず「1」の子もいた筈で、よく「1」を取らなかったものだと思う)

みんなが楽しみにしていた体育の時間は、私にとっては苦痛なだけ。
とりわけ体力測定の「ボール投げ」が嫌だった。

他の項目は下手なりに何とかサマになるのだけれど。
「ボール投げ」だけはダメだった。
(あんなに人間に近いチンパンジーでさえ、下手投げしか出来ないのだから、どうも上手投げという動作は高度な動きなのではないかと思っている)

そして、その「ボール投げ」こそは、男の子がクリアしなければならない関門だった。


それでも成長するにつれ、なんとか出来るようになるのだけれど。
高学年になると、今度はボールがより大きなソフトボールになって。
小さな私の手からは、するりとこぼれてしまうのだった。

そんな私でも、中学からはやっとみんなに追い付いたようで。
成績も「3」になり、後半には「4」になっていた。
そんなだから、高校で10段階評価の「9」をもらった時の喜びはひとしお。

「小学生だった頃の自分に見せてやりたかったなあ……」と、しみじみ思ったものだった。

当然、「ボール投げ」にも期するものがあった。
ところが、高校になるとより大きなハンドボールになってしまうのだから……。
どこまでもボール投げには祟られたのだった。


子供にはそんな思いをさせたくないと、小さな時から何かと外遊びに連れ出していた。
お陰で、なんとか私の二の舞は演じずに済んだけれど。
やはり血は争えない。テレビゲームを覚えると、なかなか私の誘いには乗らなくなった。

そして、いつしか私の方も、強いて誘うような事はしなくなった。


そんないきさつから、「親子でキャッチボール」には、特別な思いがあったのだ。
バレーボールをちょっと小さくしただけのハンドボール。
それに比べれば、手の平に収まる小さなボールなど軽いものだ。

五月晴れの空の下、やっと「ボール投げ」の呪縛から解き放たれた、のどかな休日の午後だった。

'04年5月26日

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2006/04/25

言葉質

Tentomusi子供が言葉を覚える時。
それは、周りの大人の真似をしながら。

さまざまな言葉を聞きながら、少しずつ語彙を増やしていく。


大人になってもそれは続いていて。
未だに「へぇ、こんな言葉があったんだぁ」と思う時がある。

パラパラっと辞書をめくっただけでも、そんな言葉がポロポロ出てくるんだから。
これからも、きっとそれは続くのだろう。


あれも、大人になってからの事。
当時疑惑をかけられた弁護士さんが、テレビで「そんな、ゲンシツを取られるような事は言えません」と、おっしゃっていた。

「はて、ゲンシツとはなんぞや?」

さっそく辞書を引いた私。
そこには、「言質(げんち):後の証拠となるような言葉」とあった。

……「なるほど、さすが弁護士さん。証拠にはとってもナーバス」

そしてその時、私のボキャブラリーはまたひとつ増えた。
しかし、「なんで言の質なんだろう?」という疑問はほったらかしたままで。


あれから時は流れて。

つい先日、その忘れていた疑問の答えが向うから転がり込んできた。
たまたま「言質」をネットの辞書で確認した時。
最後に「言葉質(ことばじち)のこと」とあった。


あぁ!……そういう事だったんですかぁ。

自分の発した言葉を、人質に取られちゃうから「言質」。
昔の人は、本当に上手い事をおっしゃる。

そういえば、ウチの子。
夕飯のメニューがイマイチで文句を言うと、「あ、良かったワ。分け前が増えて」なんて、よく家内に言われている。(ガツガツ食べないでね、という意味)
考えてみれば、これも立派に言質を取られていると言えるのではないだろうか。


先日のテレビでも、新しく党首になられた方が会見をされていたけれど。
一言一言を、噛み締めるようにゆっくりと発言なさっていた。
やはり偉い人になると、言質を取られるような、めったな事は言えないのだろう。

かたや、勢いに任せて口角泡を飛ばしている自分の言葉は。
今頃あっちこっちで人質に取られているのではあるまいか。


イケナイ。
これからは、ゆっくり発言しなければ。

(……うん、無理だと思います。)

4_25hyou
 
 
●追記
お昼頃雷が鳴りだしたと思ったら
ヒョウが降りました。(・o・)
挿し木していた差し穂も氷漬けに。
4月25日

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2006/04/22

心のあやとり

Tanpopo「言葉のアヤ」

そんな言い方があるけれど。

辞書を引くと、「良く見せるための言いまわし」なんて書いてある。

「修辞」の「言葉を効果的に使って、適切に(美しく)表現する事。レトリック」
という解説に比べると、なんとなく奥歯に物が挟まったような物言い。

たしかに、言葉尻を捕らえられたり、揚げ足を取られちゃった時とかに、「それは言葉のアヤだから」なんて言い訳するし。
どうも、あんまりイイ意味では使われないようだ。


でも、「綾(あや)」自体はとっても美しい言葉。

「目もあやに」と言えば、「美しくて、目もさめるぐらいに」って意味だし。
もともとは、「斜めの畝(うね)を織り出してあること・(織物)」(ギャバジンとかデニム地とか?)
「糸が細かに交差して表れる、きれいな模様」らしいから、とってもデリケートなイメージ。

「きめ細かい」の「肌理(きめ)」が「表面の細かいあや」なら、「ものごとの細かな道筋や裏表」というのも納得できる。(メロドラマは「男女が綾なす人間模様」ですもんねぇ)

なんか、人情の機微というか、心のひだをなぞるような、ビミョーなニュアンスを感じるではないか。


……輪にした糸を、指にかけてやりとりする「綾取り(あやとり)」。
これも漢字で書くと、絶妙なネーミングだと今さらのように感心する。

相手の作り出した「あや」を受け取り、自分なりにアレンジする。
そして、それをまた相手に渡す。

まるで「コミュニケーション」の原点を見るようだ。
(さしずめブログは言葉のあやとり?)


でも、ちょっとした行き違いで糸がもつれた時。
それは、あやとり遊びが終わる時。

「♪もつれてしまった恋の糸を 無理やりほどけば切れてしまう」

昔、そんな歌があったけれど。
慌てて引っ張っても、よけい絡まるだけ。

そぅっと、そぅっと、ほどかなけりゃ……。


……つくづく、「綾取り」とは上手く言ったものだと思う。
 
Karasunoendo
 
 
オオイヌノフグリ等の
早春の花の後には
タンポポやカラスノエンドウ
も咲き出して
賑やかになりました

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2006/04/19

衣替えの憂鬱

Nae_minisikuraトランス雑記その9

正式な衣替えは六月と十月だけど。

それ以外でも、セーターをしまったり半袖のTシャツを出したり。そんな、軽い衣替えはせざるを得ない。


ところで、衣替えのたびにため息をついているのは私だけだろうか……。

季節が変わり、しまい込んでいた衣装ケースの中身を入れ替える時。
「今年も着なかったなあ」と、軽い自己嫌悪にさいなまれる。

買う時にはそれなりに吟味していたつもり。
でも、こうやって見てみると、案外着る機会がなかったりして、ほとんど袖を通していなかったりするものがある。

これからも着ないだろうと頭では分かっているのに。
「結構高かったから……」という理由だけで毎年出し入れを繰り返すのは、本当に嫌なものだ。

更に、「今着るのはもったいないから」と大事にしまっているウチに、気がついたら時代遅れになってた……。
なんて服などが出て来ようものなら、断腸の思いである。


「長く着られる、品質の良い、最低限のアイテムで」を理想としていた筈なのに…。

処分してしまえば、スペースが空いた分、他の物がゆったりと収納できる。
その上、出し入れだってずっと楽になるのは分かっている。

だが、その踏ん切りがつかないのだ。

ゲームのように、気に入らなくなった時点で「エイヤッ!」とリセット出来たらどんなに気が楽だろう……。
全てがまっさらな状態から始められたら。


フリーズを繰り返すたびに、いっそ初期化してしまいたいと思いながら。
結局それすら出来ない自分には、どだい無理な事だとは分かっているんだけれど……。

'04年5月10日
 
10_30minisikura2
 
 
左は、
昨秋ミニシクラメンの
こぼれ種が芽を出した頃。
上の写真が現在の姿。
根元が球根らしく膨らみだしたのも可愛い。

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2006/04/16

「糸へん」に込めた想い

Rabenda日本語には同音類字が多いけれど。

たとえば、「積」と「績」みたいに。

両方とも、右側の旁(つくり)は同じ「責」。
でも、左側の偏(へん)が「禾(のぎへん)」と「糸(いとへん)」で違うから、当然意味も違ってくる。


ちなみに「禾」は、穀物の意味だそう。

そう思って「積」の字を見ると。
ごく自然に、収穫された稲が積み上げられている情景が、目に浮かんでくる。


もともと、右側の「つくり」が音を表して、左側の「へん」が意味を表してる漢字は多い。

「糸へん」が付く漢字と言えば、「綿・絹」とか「絣(かすり)・紬(つむぎ)」は当然として。
「細い・紡ぐ.結ぶ・絡む・継ぐ」も、いかにも「糸へん」って感じで納得。
(「紛れる」は糸が散らばっちゃって、ワケ分かんなくなった状態らしい。)

それが、「組む・統(す)べる・約(くくる意)」で、なんか束ねてるっぽくなって。
「織る・編む・綴る(繕う意)」に無理なく繋(つな)がっていく。

さらに「練る」には糸を煮て柔らかくし、さらして白くする意味があるそうだけれど。
「編・綴・練」は、「文章を練る」とか、どれも文章に関わりがある言葉に使われているのも興味深い。

その他、「紀・経・紳」のように、もともとは糸に関した字が、後に文化や知的な事を表すようになったと思えるものも。


口承でしか伝えられなかった知識が、記録できるようになったのは文字の出現によって。それで、文明が一気に発達したように。

そもそも紐がなければ結べないし、布がなければ羽織ったり包む事ができない。
そしてそれは、元になる糸を紡ぐ技術があればこそ。

言ってみれば、糸によって文化的な生活が始まったような気もする。

以前母のミシンで、純粋に力学的という意味において、「ミシンは技術の粋を集めた究極の姿では。」なんて書いたけれど。
糸を紡ぐのだって、大昔の人にとっては画期的な技術だったんじゃないだろうか。

「紙・給・級」等、どうして糸へんが付くのかと疑問に思うような字。
それも、当時どんなに紙が貴重なものだったかを考えれば、「ありがたいもの・勿体無い事」を表しているようにも思えてくる。


「紡ぐ」という意味の「績」の字。
この字には、他に「功績・てがら・わざ」の意味もあるけれど。

そんな「績」を始めとした、糸へんを持つ漢字群。

そこには、糸を手にした昔の人の、喜びの気持が込められているような気がする。

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2006/04/13

洗濯機は紙吹雪

Nioisumire_baraあれは、桜吹雪にはまだ早い頃。

「あぁ〜!」
洗面所から響く、時ならぬ家内の悲鳴。

すわ何事?と、行ってみると、ドアの内側から家内が叫ぶ。

「○○(ウチの子の名前)、ポケットにティッシュ入れっぱなしだったでしょ!」

……それですべてを理解した私。
あぁ、やっちゃいましたか……。


そう。どうやらジーパンのポケットに、ティッシュを入れたまま洗濯しちゃったらしいんですわ。
これは考えられる中でも、かなりヘヴィなパターン。

自分もやった事があるけれど。
洗濯機に撹拌されたティッシュは細かにちぎれる。
そして、その破片がビッシリと他の洗濯物にくっついて、洗濯機の中はまるで紙吹雪が舞ったようになる。

ただでさえ柔らかなティッシュが水分を含んで。
ピッタリとひっついたそれをはがすのは、なかなか面倒な作業だ。


……洗濯の失敗といえば他にもある。

以前記事にした真っ赤なトレーナー。
もう四半世紀経つのに、未だに鮮やかさを保っている。

それくらいだから、洗濯のたびに色落ちが激しくて。
「さすがに、もう大丈夫だろう……」と思って、他の衣類と一緒に洗濯。
結果、白いシャツを薄ピンクに染めた事が何度かあった。

それがジーンズだと薄青になるし。
色落ちするクセに、染まると落ちないのはナゼだろう。


もう終わったかな?とフタを開けてみたら、水道の蛇口を開け忘れてたり。
(水が出てないからすすげてない)
脱水の時に洗濯物が暴れて途中で止まってたり。
(洗濯物が片寄ると暴れるっしょ?)

開けてビックリ玉手箱。

全自動洗濯機って、勝手に洗ってくれるのはありがたいんだけど。
フタを開けてみないと、中で何が起こってるか分かんないのが、ちょっとスリリング。

Sumire_bara
 
 
バラの株元から芽を出したスミレ
上の写真は
ハート形の葉をした
ニオイスミレ

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2006/04/10

背の順

Clover2_1トランス雑記その8

子供によって成長の度合いは様々。

早くから大きくなる子もいれば、中学になって大きくなる子もいる。

この私は後者の方で、うちの子もまた、私以上の「オクテ」である。

しかも、その学年が終わろうとする頃に、滑り込みで皆と同じ年齢になる。
そんな、早生まれの私以上に、徹底した早生まれだ。


それもその筈で、出産予定日は4月の1日。
散々早生まれで苦労してきた私の、「何とか1日でも遅く生まれてくれれば……」という願いは叶わなかった。

早生まれでオクテとくれば、大体想像がつく。

卒園の時の先生の言葉。
「今、年少さんならもっと幼稚園を楽しめたのにね……」
それは、そのまま私の思いでもあった。


ところで、学校で整列するとなると、やはり「背の順」になる。

当然、うちの子は常に先頭だった。
(そりゃ運動会の写真は撮りやすいけれど、それとこれとはまた別)
それどころか、「学年が違うのでは……」と思えるくらい、飛び抜けて小さくて。
あまりのいたいけのなさに、「幼児虐待」という言葉さえ思い浮かべる程だった。

小さかった私の背が伸び出したのは、中学になってから。
小学校でいつも1番後ろだった子を、追い抜いたのもその頃だ。
「中学になれば……」それだけを頼りに、1番前のわが子の写真を撮り続けるのだった。

小学五年生の時だったろうか。

うちの子より小さな転校生がやって来た時は本当にホッとした。
1番というのは「それより下がない」という事。
まるで宇宙の果てのように、拠り所のない不安が付きまとっていたからだ。

それが、たとえ2番目だろうが比較の対象になったんだから。
「それでいいんだよ」と、言ってもらえたような安堵を覚えたのだ。


その頃からうちの子の成長期が始まったらしい。

結局背の順は変わらなかったけれど。
(運動会で、その子とは紅白に別れてしまった)
そんな事はどうでもいい。大事なのは事実である。

小学校の卒業式では、親の欲目としても5番目位に見えた。
そして、今度入った中学でも5番目だと言う。

どうやら、初めて「前へならえ」で手を前に上げる姿を見られそうである。
(1番前は手を腰に当ててるでしょ?)


'04年6月26日

●上の写真は、子供の頃を思い出して探してみた四葉のクローバー。五葉のクローバーを見たのは初めてかも。

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2006/04/07

風とともに…

Penpengusa「雨風をしのげる家があれば良い」
なんて言われるけれど。

雨はもちろん、風もなかなかに厄介だ。


花の写真を撮ろうとシャッターを押した瞬間、風が吹いてブレちゃったり。
この前のお花見でも、風に飛ばされた枯れ草がお弁当に入ってしまうのには閉口した。

春先に着る薄地のダスターコートは、防寒というより塵除けのためだし。
どうも、春には風がつきもののようだ。

そうやって、風は時々いじわるな顔を見せるけれど。
やっぱり、そよ風は心地良いし、風薫る季節は待ち遠しい。


意見を言い出しにくい組織は、「風通しが悪い」なんて言われるように。
風が吹かなければ、よどんだ空気は重くなる。

かと言って、台風を持ち出すまでもなく、強過ぎればその被害も侮れないし。
吹かなくても困るし、強過ぎても困るし。
その度合いによって、これほど印象の変わるものも珍しい。


それだからか、「風」が付く言葉は意外と多い。

「怪しげな風体」とか、「風采(ふうさい)の上がらない」なんて、身なりを表したり。
「風向きが変わる」、「どうした風の吹き回し」とかで、雰囲気や態度を表す場合も。

それが「風紀」になると、規範にまでなるし。
「風変わり」とか言ったりして、なかなか奥が深い。

「風評」を、「風の便り」に聞いてみたり。
「風説」、「風俗」、「風潮」で、ちょっと庶民的かと思えば。
「風刺」、「風習」、「風儀」とか、その領域は文化にまで及ぶ。

「風情」なんて「風流」な言葉があるかと思えば、「風雅」、「風格」で気品まで漂いだして。
そう言えば、「日本風」とかで「〜のような」って意味にも。


「風土」で、その土地の地質や気候を表すように。
風は、それだけ暮しと密接に結びついたものだったのだろう。
言い換えれば、昔から人々は、なんとか風と折り合いをつけようとしてきたのかもしれない。

いくら防風林でしのいでも、やっぱり風には抗えない。
そして「役人風を吹か」されたら逆らえない。

でも、「たけき人もついには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」……なんてね。


台風一過に、青空が広がるように。
光化学スモッグを、風が吹き飛ばしてくれるように。

イヤな事も、「風とともに去りぬ」となればいいんだけれど……。

3_29nosuporu
 
 
こぼれ種から芽を出した
ノースポール。(後ろ)
冬を乗り越えて
花を咲かせました。

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2006/04/04

かぐわしきストック

Kaho夜、寝る前にトイレに入ってた時の事。

「洗面所が臭い!」とウチの子が騒ぎだした。
「しまった!さっき歯を磨きながらオナラしたんだった……」

しかし、「オナラの臭いじゃない」と言う。
(ヨカッタ♪)


……はて、だったら何?
と、洗面所に行くと、別に変な臭いもしない。
ほのかに良い香りが漂っているだけだ。

……もしや、このストック?


2月23日にUPした、ヒヨドリに食いちぎられたストックの写真を覚えてらっしゃるだろうか。

あの後、茎だけになった花穂を切り戻したんだけど。
先端にチョットだけ蕾がついていた茎だけは切らずにいた。

あれからずいぶん暖かくなって。下の脇芽からはまた、新しい蕾が上がりだした。
そこで、その最後の茎を切ってちいちゃなガラスの器に差しておいたのだ。


……たしかに。
百合のように香りの強い花は、お見舞いには避けた方がいいと言われているけれど。

ほんの5cmほどの花穂に2、3輪しか花が咲いてないのに。
このストックが臭いとな……。

さらには、騒ぎを聞きつけてやって来た家内。
「大丈夫よ、慣れれば平気だから」
なんて、フォローしようとしたのか、トドメを刺そうとしたのか、よくわからない事まで言いだした。


……あらぁ。

もともと、ウチの家族が風流を解さないのは存じておりました。
しかし、コレ程までとは思わなんだ。


「可哀想に……」

その時、私の胸に芽生えた哀れみの感情。
それは、散々コキ下ろされたストックの花に向けられたものだったのだろうか。

それとも、この家に身を置く、自分自身に向けられたものだったのだろうか……。
 
4_2sutokku2
 
 
また花を咲かせだした
ストック

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2006/04/01

くつろぎの姿勢

06hanami1トランス雑記その7

いよいよお花見シーズンの到来。

ところで、みなさんはお花見(宴会じゃなくて、パーソナルなもの)で、ゴロンと横になるタイプ?
それとも、ピクニック風にお行儀良く座っているのだろうか。

私は、「ゴロン」派。

ゴザであれレジャーシートであれ、そこになにか敷いてあればついつい横になりたくなってしまう。
お行儀が良くないのは分かっていても、どうも「くつろぐ」=「横になる」の方程式が成り立つようだ。
でも、このタイプの人は結構いるんじゃないだろうか。


西洋の人達のくつろぎのイメージは、というと。
ソファーに腰を下ろして、といった構図を思い浮かべるけれど。
もちろん、日本人でもそれで充分くつろげる人はいる。
そして、そんな人はたいがい姿勢が良い。

ダイニングテーブルの椅子にも、背筋を伸ばして座っている。

聞けば、その方が楽だとおっしゃる。
きっと適度な緊張感を保ちつつ、くつろげるのだろう。
(家内も昔はそうだったけれど。私に感化されたのか、「お花見でゴロン」の禁断の蜜の味を知ってしまった)


私なぞは、最初こそ大人しくソファーに座っているけれど。
じきにだらしなく体を崩し始め、気が付くとリビングの床に腰を下ろしている。

頭はフローリングの生活に憧れていても、体はやはり畳が恋しいのだろうか。


どうしても「適度な緊張感」を保てず、「姿勢が悪い」=「疲れる」の悪循環に陥ってしまう私。
そんな私は、寝る以外にくつろぎの姿勢を見つけられないのが悲しい……。

'04年3月21日
 
Bentou1
 
 
ウチは昨日
お花見に行ってきました。
モチロン
「ゴロン」しましたヨン♪

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