« 2006年12月 | トップページ | 2007年2月 »

2007/01/30

オフ会ふたたび

1_28satueikai一月最後の日曜日。
行ってまいりました、ぽぱいさん主催の新年会に。

場所は前回の忘年会と同じ「世界の山チャン」。

開始時間は午後の5:00。
冬至から一月以上とあれば随分日の入りも遅くなって。地下道を出た時でさえ、まだ明るさが残る空の下いそいそと会場へ。

いくら楽しみだったとはいえ、この前は一番乗りしてしまった私。
今回はちょっと余裕を持って。

……っと思ったら遅刻してしまいマシタ。(スイマセ〜ン)(^^;)>


オフ会も、2回目となれば楽しさ倍増。
最初から、なごやか指数はうなぎのぼり。

人間は学習する生き物。
もちろん今回はしっかりケータイを手元に置くのも忘れずに。
(今回はオフ会恒例の「撮影会」まで撮らせていただきました♪)

でも、やっぱり話が興に乗れば時間は瞬く間に過ぎて。

盛り上がった気分のまま夜の歌舞伎町へ繰り出せば、もはや気分は二次会へ。
当然のように、カラオケとあいなりました。
(↑なにか?)


さて、いざ始まってみると。

さぞや皆さん……。という私の思惑通り上手い人ばかり。
しかもツワモノ揃いとあれば、吟味された曲のオンパレード。
(あのぉ。ブログとかぁ、ミクシィやってる人ってぇ、タダ者じゃないと思いま〜す)
さらなる盛り上がりを見せたのでございました。

お開きとなって外に出れば、火照った顔に夜風も心地よく。

「カラオケに、誰も反対しなかったもんねぇ……」

宴の後、ぽぱいさんがポツリと漏らしたこの一言に、深く頷きながら家路についたのでありました。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2007/01/28

小さな傷

Ki_dote先日、トレーナーをタンスの引き出しにしまおうとした時。

……やってしまった。

ただでさえギュウギュウ詰めの引き出しの中に、さらに押し込もうとしたもんだから。
力を入れたハズミに、人差し指を上のワクで擦ってしまったのだ。

「痛!」っと思った時にはもう手後れ。
見ると、3ミリくらい皮がむけている。

血も出なかったし、痛みもスグにおさまったから、どうというワケじゃないんだけど。
こういう小さな傷が、なかなかどうして始末に負えない。

その時は大したことなくても、たいてい後になってズキズキと疼きだす。

日に何度もする手洗いや水仕事。顔も洗うし、歯も磨く。
そうなると、傷口を濡らさずにいるなんて無理。

そのたびに救急バン(バ○ドエイドみたいなの)を貼り替えてられないし。
朝晩二回替えるとしても、治るまで最低三、四日はかかる。

そう思うと、チョットうんざり。

その日も、夜寝る前に救急バンを貼ろうと思いながら忘れちゃったし。
案の定、翌日から痛みだした。

ポケットの中身を取り出そうとして「痛!」。
トイレで身繕いをしても「痛!」。
鬱陶しいことはなはだしい。


ただ、そんな煩わしい思いをさせられるのは、なにも小さな傷だけとは限らない。

目に入ったマツゲや、指先に刺さったちょっとしたトゲ。これもなかなか。
そんな、ほんの小さなことで神経を逆撫でられてるのかと思うのもクヤシイ。
(もちろん大きなことは、もっとイヤだけど)

そうやって考えると、なんか日々の暮しは小さなストレスの繰り返しなのかもしれない。


そういえば、「奥歯に物が挟まったような」なんて言い方があるけれど。
歯と歯の間に、何かが詰まった時もおんなじ。気になってしょうがない。

なのに、歯医者さんで詰め物をした後に感じる異物感。
あれは、不思議なことに三日もすると慣れて気にならなくなるのも事実。

気になりだすと居ても立ってもいられなくなるのに。
それが避けられないと悟ると、折り合いをつけて受け入れてしまう。

……良きにつけ悪しきにつけ。

人間の体は、そんなふうにできているのだろうか。

| | コメント (14) | トラックバック (1)

2007/01/25

あげる/その2

Asayake3敬語は難しい。

特に「差し上げる」は分かりにくい。

「あげる」は「与える」「やる」の謙譲語。
下から上へ「上げる」のだから、それはいいとしても。

反対に上から下への尊敬語は「下さる」のかと思ったら。
「賜(たま)う」なんだとか。
(そこまでの敬語を要求される場面には遭遇しなさそうだからいいんだけど)

尊敬語の「くださる」の基本語は「くれる」。
で、その反対は「もらう」だから、謙譲語は「いただく」になるんだそう。

なんか「あげる」「くださる」「いただく」の三つどもえって感じになっちゃうし。
ここはやはり、「あげる」は単独で考えないとこんがらがりそう。


ところで、実際に「あげる」を謙譲語として使う時には、「差し上げる」になるんだろうけれど。
ここでもまた疑問が。

例えば、同じお稽古教室の生徒同士だった場合。
先生にお歳暮をあげたか尋ねる時。

「先生にお歳暮を差し上げましたか?」でいいのだろうか。

確かに先生には敬意を払った言い方だけど。
肝心の話し相手の行為を謙譲しちゃうのはマズそうだし。
現実的には「差し上げた方がよろしいんでしょうか?」とか言い換えたり?

他にも、目上の人の子供にあげたい時。
「お子様に差し上げてください」も危なそう。
上がって下がるとなると、もうお手上げ。
(「お渡し下さい」で逃げた方が無難?)


「あちらを立てればこちらが立たず……」は世の常だけど。

どっちにも失礼のないようにしようとすると、自分がヒンシュクを買っちゃったり。
とかくに人の世は住みにくい。

敬意を払う相手が複数になると、どうしてこんなに複雑なんでしょ。


●追記:私の疑問は「二方向への敬語」なんだとか。
↓いろいろ検索してみたところ、とっても参考になるサイトさんを見つけました。

http://www3.kcn.ne.jp/~jarry/keig/c01c23.htm

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2007/01/22

あげる/その1

Asayake1私が中学生の時だ。
美術の時間にオルゴールを作ったことがある。

作ると言っても木製のキットを組み立てただけだけれど。

唐草模様を彫り上げた表面にヤスリをかけ、黒く塗装してニスで仕上げる。
小物入れになっている内側には、エンジ色のフェルトを貼って。
すると、想像した以上の出来栄えになって、自分でもちょっと嬉しかった。

そこで私は欲を出した。
フタの裏側に小さな鏡を付けたくなったのだ。

どこに行けば手に入るだろうと考えた私は、通学途中にガラス屋さんがあるのを思い出した。
鏡もあったような気がするし、あそこなら売ってくれるかもしれない。
どうしても鏡が欲しかった私は、勇気を出してそこに行くことにした。


私が声をかけると、中から出てきたのは無愛想なおばさん。
おずおずと「小さな鏡が欲しいんですけど……」と言うと、その人は顔からさらに表情を消す。それは、不機嫌と言ってもよかった。

自分は何かいけないことをしてしまったのだろうか。

すると、不安げに見つめる私の目の前で、そのおばさんは思いもよらない行動に出た。
その辺にあった鏡のカケラを拾い上げるや、慣れた手付きでそれを四角く切り出したのだ。そして、あっけにとられている私の前にそれを突き出し、こう言った。

「やるよ」

あぁ……。そういうことだったのか。
その人にとって自分はお客ではなく、鏡を欲しがっているタダの子供だったのだ。
迷惑そうだったのも無理はない。
むしろ私は、感謝しなければならないのだ。

……そこまでは理解できたけど。
それでもやっぱり、私はイヤな気持を振り払えなかった。

「お金を払ってでも、ちゃんとした売り物の鏡が欲しかった」
少し角の曲がった四角い鏡。
切り出したままの、手が切れそうな鏡を注意深く持ちながら、私はそう思った。


敬語の使い方によると、「あげる」は「やる」の謙譲語になるんだそう。
それでいくと「花に水をあげる」という言い方は間違いだとか。
だから、あのおばさんの言葉は正しかったのだろう。

私も対外的には「子供にお小遣いをやった」と言うようになったけれど。
でも、家で子供に言う時には「お小遣いをあげる」と言いたい。

この「あげる」。
今では謙譲語というより「やる」の丁寧語として定着しつつあるんだとか。

私も、それでいいような気がしている。

Asayake2
 
●追記:「あげる」と「やる」はとってもデリケートな問題で
二重敬語の「お召し上がりになる」が市民権を得たように、今過渡期にあるような気もします
その2では、謙譲語の「差し上げる」に触れたいと思っています

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2007/01/19

ひねもすのたり

Notariお正月も過ぎ、またぞろいつもの日々が始まった頃。
ある日私は仕事部屋にいた。

……すると。

何かの効果音だったのだろうか。
リビングのテレビから「ヒャラ〜」という音が。

その瞬間、はからずも私は反応してしまった。
「♪ヒィ〜ラリラッタラ〜」と歌いだしてしまったのだ。

いえ、これだけでは何のことだか分からないのも無理はございません。

私の口を突いて出たのは、あのお琴の名曲『春の海』。
お正月、商店街とかテレビ番組のバックに、必ずと言ってイイほど流れるあの曲である。


「♪ヅン ツクツクテロリン……」というお琴の旋律。
それにやや遅れて重なる笛の音色。
テレビから流れてきた「ヒャラ〜」が、それに酷似していたのだ。

私にこの音を聴かせてはイケナイ。
そのとき私の心は時空を超えて、いともたやすく春の海に漕ぎだしてしまった。
ひねもすのたりのったりと。

ときはまだ、松が取れたばかりとくればなおさら。
誰も私を止められはしない。


と、ここまではいつもの日常だけれど。(←もしもし?)
実はこの先が問題で。

案の定、テレビの音はタダの効果音だったらしい。
むろん他の家族は私の中で何が起こっているかなど知るヨシもない。
仕事部屋から漏れ聞こえるときならぬ歌声に、リビングの空気は一瞬引いたかに思えた。

しかし、引いた波が返すように襲ってきた二段構えのリアクション。
それは言葉少なに、しかしだからこそ確実に私の足をすくった。

息子の「……若年性?」に、家内は冷然と答える。

「もう普通のよ」。

……。

私はもう、若年性という冠さえ手が届かない場所にまで、漕ぎだしてしまったのだろうか。


……っとまぁ、クドクド書き連ねてまいりましたが。
早い話、私が歌いだしてツッこまれるという、これまたいつもの日々が始まったのでございます。

| | コメント (13) | トラックバック (0)

2007/01/16

どんど焼き

Dondo_sお正月の門松や輪飾りを焚くどんど焼き。
以前住んでいた所では、近くの空き地で行われていた。

今のマンションはそこから車で2、30分ほどの距離。
それで、引越した後も毎年そこに行くのが習慣となっていた。

車を降りて5分ほど歩くと、畑越しに見えてきた現場はすでに準備が整っているようだ。
三階建ての家ほどに組み上げられた土台も出来上がっている。
その下の方には、チラホラと置かれたお飾りも見える。


ところが、行ってみるとなんと門が閉っているではないか。

注意書きを見てみると、1:00〜4:00以外は立ち入り禁止とある。
私が行ったのは昼前だから、少し早かったようだ。
昔は出入り自由だったのに。ここ数年、どんどん規則が厳しくなっているような気がする。(いくらどんどと言ったって)(T_T)

しかもご丁寧に「放置禁止」とまで書いてある。(スルドイ!)
門松を立てるのも、どんど焼きも気持の問題だし。ここで規則を破っては本末転倒。
しかたなく持って帰ることにしたけれど、私としては面白くない。

しかし、ここでフテ腐れては「心穏やかに過ごせますように」と初詣でした意味がない。グレそうになる気持を必死で立て直した私は、あることを思い出した。

「たしか、河原でもどんど焼きをしていたっけ」
ただ、そこはちょっと遠いし。今でもやっているのかは分からない。
それでも私は、家に帰ってから自転車に乗り換えてそこに向かった。
矢も楯もたまらずに。

……そして、その不安は見事に適中した。


私はめっぽう気が短い。(エバれない)
私はただ、お正月の門松や輪飾りを然るべく納めたいだけなのに。
その思いは持って行き場がない。
寒風に吹かれながら右往左往する、その時の私の胸中をどうかご忖度願いたい。

と、その時私は閃いた。
一駅先の神社なら、お焚き上げしてくれるかもしれない。
しかもその神社は、今年の吉方に位置しているのだ。(そこはもっと遠いけど)

ものの本によると、初詣ではその年の吉方の神社にお参りするものらしい。
でも、以前住んでいた市内の神社には、もう二十年以上通っているし。
今年も操をたててそこに初詣でした私なのだったけれど。

しかし、こうなっては許してもらうしかあるまい。
方向転換した私は、そのままエンヤコラとその神社に向かった。
そして、無事お賽銭と共にお焚き上げ用の箱に納めることができたのだった。
これで、めでたしめでたし。

しかし、そうは簡単にいかないのが人の心。

家に帰って壁の時計を見た私は、その場にくずおれそうになった。
その針が示していた時刻は1時をとうに過ぎていたのだから。

あぁ……。あのまま開門を待っていても同じだったのか……。

やはり、短気は損気である。


●写真は三年前のもの。カメラを向ける気にもなれなかった心中お察し下さいませ。(T_T) なお、ココログは1月16日(火)15:00〜17日(水)15:00まで、24時間のメンテナンスだそうです。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007/01/13

鉛筆削り/その2

Enpituf12H、HB、3B。
鉛筆にはさまざまな硬さがあって。

「H」は「ハード」の略で、Hから9Hまで数字が大きくなるほど硬くなる。

一方「B」は何の略なんだろう、と思いつつ調べもしなかったけど。
それは「ブラック」の略だと知って、納得。
これは数字の順に柔らかくなって、Bから8Bまであるんだそうな。

そして、「H」と「B」の中間が「HB」。

子供の頃、なんとなくノートに書く時に使っていたのは「HB」。
それが高校生の頃には「2H」になってたと思う。

柔らかい鉛筆はなめらかで書きやすい。
でも、右から左へと書き進む内に、手で擦れた所が汚れてしまうのがイマイチ。
消しゴムをかける時も、柔らかいと消しにくいような気がする。
それで、握力が強くなるに連れて、少し硬めを選ぶようになったのかもしれない。


ところで、鉛筆にはもう一つ「F」というのがある。

自分がそれを使いだしたのは大人になってから。
これは「HB」と「H」の中間だそうで、「ファーム(丈夫)」の略だとか。

なめらかな書き味なのに、そんなに手も汚れないし。
実際に使ってみるととっても書きやすいことを知った。
それは、「H」から「B」へのどれにも属さない、特別な一本のような気がする。

だから最近の私は、もっぱらコレを使っている。
昔のようにノートをとるわけでもないし、ちょっとしたメモを書くにはコレが一番。
気負わずに、スーっと滑るように書ける。(消しにくいのは気にしない)

とはいえ、何度も書き直す絵の下書きには、未だに「2H」を使っている私。

どうやら集中する時には「2H」。
書き味を楽しむ時には「F」と、鉛筆を使い分けているようだ。


柔らかくて先の丸まった鉛筆を紙の上に滑らせても、黒鉛の粉は紙の目の奥までは届かない。ザッと表面をかすめるだけ。
でも、だからこそ味わいのある線が引ける。ホンワカした柔らかみがある。

逆に芯を尖らせると、その先は紙の繊維の奥にまで入り込む。
細かなその綾までもなぞることができる。


いつもその芯先を尖らせていた若い頃は、それが自分でも痛かったけれど。

先の丸い柔らかな鉛筆の書き味を知った今。
そっと紙の表面を撫でる「F」の感触。

今の私は、それも大切に味わいたいと思う。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2007/01/10

鉛筆削り/その1

Enpituヌイグルミの耳のように、ちょこんと上に飛び出した小さな突起。

それを両側から押さえると、小さな丸い穴をふさいでいたギザギザが開く。
鉛筆をその穴に入れ、耳の付いた押さえを引き出して手を離すと鉛筆が固定される。
あとは反対側のハンドルをグルグル回すだけで、ガリガリと鉛筆が削られていく。

あの懐かしい手動式の鉛筆削り。

小学生の頃、兄の机にあったそれで、私も鉛筆を削っていた。
でも、私の記憶の中では、当の兄や父は不思議と小刀で削っている。

ささがきゴボウの作り方は、よく「鉛筆を削るように」なんて言われるけれど。
ちょうどそんなふうに、シュッシュッと削っていた。
そしてそれは、何か厳かな儀式のようにも見えた。

私がそれを真似ても、上手には削れなかったけれど。
降りたたむと4Cmほどの大きさで、それを広げるとカミソリの歯が出てくるボンナイフ。それは、当時どの子の筆箱にも入っていたものだった。


鉛筆削りが電動になる頃、私の筆箱からもしばらくボンナイフが消えていた時期がある。しかし、鉛筆デッサンの勉強を始めた頃、私はまたカッターナイフで鉛筆を削りだした。

顧問の先生から指示されていたのは、5Bや6Bの鉛筆で描くこと。
でもそうすると、柔らかいその芯はスグに丸くなってしまうから。
多めに削り出した芯の先を、ナイフで細く細く削っていた。


立体の白い石膏像を、平面の白い紙の上に写し取るデッサン。

陰影を描くというより、その面の連なりを細い鉛筆の線でなぞっていく。
それは描くと同時に、その立体を自分の中に捉えるための作業。

上手い人が描いたデッサンの線は、石膏像の輪郭を超えて、あたかも見えない裏側にまで続いているように見える。
手を伸ばせばさわれるようなほどに。

そんなデッサンが描けるよう、私は鉛筆を削るのだった。
鉛筆の先を研ぎ澄まして、ひたすら石膏像の表面をなぞるのだった。


そして今、私はキーボードに向かって、その時々の自分の気持をなぞっている。
そしてそれを写し取ろうとしている。
頭の中の鉛筆を削りながら。
 
 
●kokoさんの素敵な鉛筆の思い出はこちら(^^) → 青空生活: えんぴつ

| | コメント (14) | トラックバック (0)

2007/01/07

仕事始め家事始め

Tyosyokuトントン……という包丁の音で目がさめる。
すると、台所からはお味噌汁のいい匂いが漂ってくる。

それは、子供の頃の懐かしい朝の状景。

でもウチの場合、トースターから漂ってくるのが、パンの焼ける香ばしい匂いなのがちょっと違う。
そしてもう一つ違うのは、トントン……という音をたてているのが私だということ。

つまり、誰あろう私が朝食を作っているのである。

朝一番に起きだしてファンヒーターに火をつける。
その前で暖まりながら、ボーっと目がさめるのを待つ時間は、つかのまの桃源郷。
ひとしきり暖まった後、ノソノソとお湯を沸かすために台所の換気扇を回す。
すると、その音で家内が起きてくるのがいつものことだ。

実際、そうしてもらわないとコチラが困る。
寒い冬の朝、ファンヒーターの前はVIP席だから。
しばしそこを独占したいがために、私は早起きをしているのだ。


私が朝食を作るようになったのは、ウチの子が生まれてから。
その大変さを目の当たりにして、ここは一肌脱がねばならぬと思ったのが運の尽き。
いや、始まりであった。
朝食が済んだ後、バトンタッチした家内がお弁当を作り始める頃、私が掃除機をかけだすという段取りになっている。
(ただ、幼稚園の三年間だけは、その座を譲っていたけれど)

ここで家内の名誉のために一言申し添えると、私が準備している間、家内は洗濯機を回している。
そして私は、それをするのが大嫌いなのだ。

ケチな我が家では、お風呂の残り湯をポンプで洗濯機に移して使っているんだけれど。
グルグル巻きになったホースやコードをほどくのも面倒臭いし。
それを寒い洗面所でしなければならないのが何よりイヤ。


お正月の三が日、ウチの朝食はおせちとお雑煮。
お雑煮を作るのは家内だから、当然お鉢がコッチに回ってくる。
それはあの、幼稚園時代のツライ作業。

そのお役目からも、四日からは解放される。
本当にめでたいことだ。


「えぇ〜!今日からいつもの朝食?」

という息子のボヤキも受け流し、私はいそいそとテーブルに皿を並べる。
これから一年間、ポンプのホースと格闘しなくても済む喜びに浸りながら。

だから私は、これからもこの座を明け渡す気はない。

Tyosyoku_zu
 
ハムはツナと替わることも。
以前は目玉焼きも
ローテーションに入っていたけれど
コレステロールが気になってからはナシ。
あぁ、半熟の黄身にお醤油をかけて食べたい!

| | コメント (12)

2007/01/04

アインシュタイン

Yukiyanagi2休日の朝、いつもより遅い朝食を食べていた時だ。
ウチの子が「ドボルザークって、作曲家?」と聞く。

なんでそんなことを聞くのかと思ったら。
そんなハンドルネームを見て、カッコイイと思ったんだそうだ。
さらに、「アイザック・ニュートンの名前もカッコイイよね!」だとか。

ふぅ〜ん。そういうもんですか……。
いつもは黙ったまま、半分寝ながら食べてるクセに。

ま、それはいいとして。
ニュートンのファーストネームって「アイザック」だったっけ。
なんて思っていたら。

「だったら、アインシュタインの名前は何だろう?」と言う。

はて?ニュートンのでさえ忘れてたんだから。
ましてやアインシュタインのなんて思い出せるハズもない。
いや、もともと知らないのかもしれないんだし……。
(後で調べたら、アルベルトでした)


どうやらその時点で、私は意識が浮遊しだしたらしい。
気がつくと、話はすでに佳境を迎えていた。

息子の「……やっぱりね。」に、「そう、奇人だったのよね。」と、すかさず家内が頷く。

「アインシュタインは奇人だけど天才。でもお父さんはタダの奇人。」
「そうそう。」

……あで?

話がそこに落ち着くのはお約束としても。
いったい、いつからそんな話になったんだろう?
素朴な好奇心で、「どうしてそうなったんだっけ?」と聞くと。

事の顛末はこういうことだった。

息子に、「お父さんの師匠?」と言われた私。
「そう、アインシュタインとお呼び。」と答えたらしい。

……おぉ!
上の空とはいえ、まっとうな受け答えをしているではないか。(どこが!)

たとえ奇人と言われようと、そんなことはなんのその。
私はそんな自分が愛おしい。

(……と、思わなきゃやってけません) (T_T)
 
Oseti_2
 
 
あまりのアホさかげんに
書いてはみたものの
ボツにしておりましたが
お正月ということで
UPしてしまいました。(^o^)

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007/01/01

年のはじめに'07

07osonaeあけましておめでとうございます。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします。


小学生の頃、学年が変わると教科書も新しくなった。

四隅がピシッと裁ち落とされたそれはすがすがしくて。幼いながらも、そこに自分の名前を書く時は、チョットあらたまった気持になった。

もっとも、学年が終わる頃にはくたびれて落書きだらけになるんだけれど。
それでも束の間、初々しい気分に浸ったものだ。

当時はそれにブックカバーをかけるのが流行ってて。
兄や姉の真似をして、綺麗な包装紙を切って作ったりした。

そっと表紙を広げてカバーを折り込む。
その時の緊張感も懐かしい。


年があらたまって、新年を迎える気持も、それに似ているかもしれない。
新しい年は、まだ折り目もつかずに、真っさらなままここにある。

07kadomatuハズレた宝くじに、夢は残っていないけど。
抽選日の前までは、どの宝くじにも淡い期待が込められているように。
とりあえず、可能性を否定されてはいないのだから。

だから今だけは、新鮮な時間を味わっていたい。

新しい教科書に、そっと包装紙を折り込む時のように。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

« 2006年12月 | トップページ | 2007年2月 »