2008/07/01

ねんきん特別便

Nenkinなんと私の元にもやって来ました。

「ねんきん特別便」が。

年金記録問題が騒がれたのは記憶に新しいけれど。
なんでも、年金記録にもれがある可能性の高い人に送られているんだとか。

さっそく非常持ち出し袋にしまってある年金手帳を確認してみたら。国民年金の加入記録には間違いがなさそうで一安心。

でも、厚生年金の記録がないのがチョット気になる。

今までにも何度か書いたように。
卒業してからの二年間、私は会社に勤めていたことがある。

ほんの短い間だったけど、自分にとっては忘れられない経験。
だから厚生年金の加入証は、大切に保管していた。
こんな自分でも会社勤めをしていた、というささやかな勲章なんだから。

それが無かったことにされてはたまらない。
(再度確認のハガキが送られてきて、慌てて返送した私も私ですが)


あれは、TBSが新社屋になるずっと前。
かつて「赤坂5丁目ミニマラソン」のコースでもあった三分坂を、下りたところにあったその小さな会社。

毎朝地下鉄の駅を出て交番の角を曲がるたび。
「今日はイヤなことが起こりませんように」なんて祈るような気持で向かった会社。
でも、その願いは叶わないことの方が多くって。
結局ニ年しか通えなかったその会社。

そして、今はもうすでに存在していない会社。

当時の自宅の住所を記入しろと言われても。
市が合併しちゃって、今では名前が変わってる。

もう四半世紀以上前のこと。
歳月は確実に過ぎてしまってる。


なのに、今でもその会社の電話番号を覚えている自分に驚いた。

受話器から「はい、スタジオ○○です」という声が聞こえてきそうで。
ふと、その番号に電話してみたい誘惑に駆られてしまった自分が可笑しい。

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2008/01/30

バタークリームの時代

Coffee_cupある日のコーヒータイム。
そこには、家内がスーパーで買ってきたロールケーキのようなものが添えられていた。

ちょっと小さめなそれはモチモチっとした食感で、濃厚なクリームもなかなかに美味しい。


しかし、しばらくすると家内がボヤき始めた。
「……あんまり、美味しくな〜い」

なんでも、そのスポンジが気に入らないようだ。
「なんかこう……。エアリーじゃないのよ!」

なんと。「エアリー」ですか!!(・o・)

まぁ、言われてみれば確かに。
フワフワの空気感がスポンジケーキの魅力だとすれば。
それを極めたのがシフォンケーキのような気がするし。
目の前のコレは、その対極にあるのかもしれない。

でも、このモッチリ感も捨てがたいんだけどなぁ……。

などと私が未練がましく思っていると。
今度はそのクリームにも文句をつけ始めた。
「なんか、昔の『バタークリーム』みたい」

うおぉぉぉ・・・。

今度は「バタークリーム」ですか!!!
その瞬間、私は懐かしさのあまりのけぞりそうになってしまった。


……生クリームになんてお目にかかれなかった子供の頃。
クリスマスケーキと言えばバタークリームだった。
(上に「仁丹」みたいな銀色の飾りがまぶしてあったりして)

それはその昔、近所にあった「にかい屋」のショーケースの中にも鎮座ましましていたものだ。
ただのガラスの陳列棚に並べるには、バタークリームが必然だったのだろう。
(「名糖アイスクリーム」と書かれた、小さな冷凍庫は店頭にあったけど)
「保形性に優れているため、常温保存をするお菓子に使われることが多い」というのも頷ける。

当時はそれでも満ち足りていたけれど。
やはり初めて生クリームを食した時の感動は忘れられない。

「世の中にこんなに美味しいものがあったなんて!」


昔懐かしいコッテリとしたあの「バタークリーム」。
ある意味それは、あの時代の象徴と言っていいのではないだろうか。

その時私は、口の中に広がる濃厚なクリームの味わいと共に、確かに「あの時代」を噛み締めていたはずである。

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2007/12/22

夕暮れのモミの木

07tree出せば出したで掃除が大変だし。
後片付けのことを考えると、後回しにしたくなるんだけれど。

もうすぐクリスマス。
そろそろツリーを出さなくちゃ。

誰が喜ぶワケでもないのに……。

なんて準備していると、今年は珍しくウチの子が参加。
任せてたら、なんだかモールのミイラみたいになっちゃったけど。
ま、こんなもんでしょ。

……あれは小学5年生の今頃。
私は両親に連れられて駅前の商店街を歩いていた。

早い夕暮れにあたりはすっかり暗くなって、お店の明かりが暖かそうに灯っていた。
そんな一画にある花屋の前に差しかかった時。
突然、父は店頭にあったモミの木を買ってくれると言った。

それは高さが1m以上もありそうな鉢植えで。
てっぺんに付ける星やモールの他に、ささやかな電飾まで買ってくれると言う。

しかし、当時は皆そうだったけれど。
決して豊かではない暮しに、それはあまりにも不釣り合いに思えた。
だから喜びが大きい分、「最後の楽しい思い出にしようとしているのではないか?」と子供心に余計な心配をしてしまったほどだった。
(「幸せすぎて怖い」という言葉があるのなら、その時の私がまさにそうだった)

今から考えれば、高度経済成長の真っただ中。
その余波が、やっと我が家のような下々の生活にも行き渡った頃だったのだろうか。

ともあれ、私の不安は杞憂に終わり。
最初おずおずと足先を浸していたものに、やっと身を任せることに慣れていったのだった。

さて、それからは毎年その飾り付けをするのが私の楽しいお役目になった。
もしかしたら、それは私が実家を出るまで続いていたかもしれないし。
(あるいは同居していた姪に引き継いだのかも?)
その後も何年かは、玄関脇にその鉢植えが置いてあるのを、帰るたびに目にしていたような気がする。


そして今、家にあるのは合成樹脂製の小さなツリー。

それをハンズで買ってからも、もう四半世紀以上が経っている。
少しずつ増えていたオーナメントも、買わなくなって何年になるだろう。
それでも毎年、クリスマスが近づくとこうしてツリーを出している。

そしてあの時の夕暮れの商店街を思い出している。

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2007/09/28

緑の黒髪

9_27higanbana_m_2前回の「あかなめ」先生。
担任だったのが短かったこともあって、ほとんど記憶がないんだけれど。
それでも忘れられない出来事があった。


あれは図工の時間。
先生と生徒が、電車ゴッコで遊んでいる絵を描いた。
ルンルンで描き終えたそれを、意気揚々と先生の所へ持って行くと。

「髪の毛はこんな色じゃないでしょう?」と言われてしまった。

……たしかに。
肌色に、その色がキレイに映ったのだろうか。
その時私は、それを緑色で塗っていたのだ。

どうやら、好きに描けばいいお絵書きと、図工の時間に描く絵は違うらしい。
そんなことを悟った私は、今度はそれを茶色に塗り直した。
「うん。この方がナチュラル」(と、思ったかどうかは分からないけど)
私は、今度こそと意気込んで先生の所へ行った。

すると先生は「髪は茶色じゃないでしょう?」と言って、それをまた突き返した。
(あの頃、茶パツの人はいなかったですもんね)

……はて、だったら何色に塗ればいいのだろう?
困惑して立ちすくむ私に、先生は怒ったようにこう言った。

「髪は黒に決ってるでしょう!」

……あぁ。そうだったのか!
私はまさに目から鱗が落ちるような気がした。
自分はそれまで、夢見心地で絵を描いていたのだろうか。
その時、私は絵にはお約束があることを知ったのだった。


しかし、あれから時は流れ。
高校生になった私が美術を志した時、顧問の先生からこう言われた。

「君は固有色にとらわれすぎるね」(……はぁ?)
「白い紙を丸めた絵を描いたら、君はグレーでしか色を付けられないでしょう?」

……まさにおっしゃる通り。
当時の私は、肌色だったらその濃淡に茶色い影しか付けられなかった。
でも、ルノワールの絵なんかを見ると、同じ肌色でも影の部分には紫色や緑色が混じっている。
そしてそれが、ふっくらとした肌に透明感を与えている。


小学校で固有色を教えられ、今度はそれにとらわれていると指摘され。
左右に大きく振り子を揺さぶられた私。
アッチへコッチへと小突かれて。
結局小さくまとまっちゃって。

あの時「綺麗な緑色ね」と言ってもらえていたら、今頃どんな絵を描いていたのだろう……。

なんて思ったりする私は、ウチの子に絵の描き方を教えたことはない。

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2007/09/25

附子

Yuyake2ある時、ポージィさんのブログに萩の花が。
それで思い出したのは、中学の教科書に載っていた狂言『萩大名』。

そんなことを書き込んだところ。
ポージィさんが習った狂言は『附子(ぶす)』だった、とのお返事をいただきました。
(教科書でも一度は古典芸能に触れられるようになっているんですね)

そこでさっそく検索してみると、とっても有名な狂言のようだけれど。

砂糖のことを、猛毒の「附子(ぶす)」だと言って一人占めしていた主人。
その留守中に、こっそり食べてしまった太郎冠者達。
はたしてその言い訳は……。というあらすじを読んで驚いた。

私はナゼかこのお話を知っている。

小学校一年生の時、担任の先生に所用があって。
代わって教室に来た、教頭先生が聞かせてくれたお話によく似ているのだ。

砂糖が水飴で、主人はお寺の和尚さん。
そして、召し使いの若者の冠者達は小僧達と、設定を変えた一休さんのお話。
その、トンチの効いた言い訳が面白かった。

それもそのはず。
検索したサイトさんには「一休さんのとんち話を受け継いでいる」との記述も。
(『一休さん』が、そんなに古くからあるお話だったなんて!)


それはそうと、教頭先生のお話の後も、一、二度そんなことがあって。
(別の先生の『あかなめ』のお話は面白いけど怖かった)
私はそんな時に聞けるお話が楽しみだった。

当時、担任の先生は新任の若くて優しい女性教師。
休み時間もまとわりついていたほど、大好きな先生だった。

記憶の中のその先生は、いつも微笑んでいたけれど。
ただ、時折寂し気な表情になることもあったような。
そしてそのまま、一学期か二学期が終わる頃、突然退職してしまった。

後任になったのは、ベテランの女性教師。(『あかなめ』の先生だったかも)
やがて自習の時間にお話をしてくれる先生もいなくなり。
私はそんな変化を味気なく感じていた。


今から考えると、自習の時間のお話は、周りの先生の精一杯のサポートだったのだろうか。
私はその時、「大人の事情」というものを知ったのかもしれない。

そして、学年が上がるごとに先生も厳しくなって。
それが「お兄さんになる」ということだと悟るまで、そう時間はかからなかった。

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2007/05/28

あの夏の日

5_12dote1あれはおととしの夏。
後二日で夏休みが終わってしまうという日だった。

いつものように、私がウォーキングに出掛けようとすると、ウチの子が一緒に行くと言う。

おや、どうした風の吹き回し。
ま、一人で行くより二人の方が楽しいし。こちらとしても異存はない。


河の土手にあるサイクリングロードに立つと、遮るもののない視野に広がるのは、見渡すかぎりの青い空。
一発でその爽快感のトリコになってしまったらしい。(ホレごらん♪)
それからは、休みの日になると私に付き合うようになった。

河川敷には、サッカーやボール投げに興じる人々が見える。
それに刺激されたのか、ある日「キャッチボールをしよう」と言いだした。
せっかく二人いるんだし。よし、お相手してあげようではないか。

学校の休み時間に友達としていたというだけあって。
久しぶりに受けたボールは一直線に胸元に飛込んで来る。

それに負けじと張り合うけれど。もともとそんなに得意じゃないし。
今まで山なりのボールしか投げたことがなかったことに気づいた私。
もしやその時が、自分が水平よりも下に向かって投げた、初めての経験だったのではないだろうか。


それに味をしめたのか。
冬休みの頃にはもう、キャッチボールするために河原に通う感じになってきた。
そして春休みになったら、お次はサッカーである。
キーパー役をやりたいから、今度は私にシュートしろと言う。

ちょっとちょっと。
体育の時間でさえ、足の内側で蹴るインサイドキックでゴマかしてたのに。
足の甲でシュートなんて出来ません。
どうしてもトウキックになっちゃうから、痛いの痛くないのって。
その頃の私の爪先は、常に熱を持って疼いておりました。

そして気がつくと、なんと私のスネには筋肉が付いているではないか。
それまで、それは棒状に太く発達するもんだとばかり思っていたけれど。
平らに広くなるということを、その時初めて知ったのであります。
 
 
5_12dote2そんなこんなで一年が経ち、また夏休みを迎える頃。
親と遊ぶのにも飽きたウチの子は、ひたすら走りだした。

私に麦茶の入ったペットボトルを預けるや、サイクリングロードをかけていく。
そして折り返した後、歩いてきた私と落ち合って麦茶を飲むのが日課になった。
(あたしゃ麦茶持ちですかい?)

そんな一夏を過ごし、また涼しくなった頃。
ウチの子は、もう一緒に行こうとは言わなくなった。
(麦茶の切れ目が縁の切れ目なのね)

今では勝手に一人で出掛けていく。
そして、キャッチボールとサッカーから解放された私は、また黙々とウォーキングするのです。


思えばあの夏の日。
土手の道を走り去る後ろ姿を見送った時から、それは分ってたことなのかもしれない。

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2007/05/16

竹馬の友/その2

5_8sirotume期せずして竹馬乗りがウケた後。
私はまた、去年のように近所の散策に出た。


それは中学校への当時の通学路。
でも、大通りから一本入ったその小道にも昔の面影は残っていなかった。

途中で横道に入り、さらに一本横の道を引き返していると。
はからずも、またあの道に出てしまった。

引越す前に住んでいた家がある、路地に通じるあの道。

アキオ君の家の前を通り、タアちゃんちの角を曲がってかつての我が家を通り過ぎると、斜め前はシゲオ君の家。
共に竹馬で遊んだ幼馴染みを竹馬の友と言うのなら、シゲオ君こそまさにそうである。
それこそ毎日のように遊びに行ったものだった。


それが、同じ町内とはいえ中学生になる頃私が引越してからは、パッタリと行かなくなって。
私より一つ下だったシゲオ君も中学生になり、坊主頭で再び出会った時。
もともとシャイだった彼は、私に対しても恥ずかしそうにうつむくだけだった。

その後も、年賀状のやり取りだけは続いていたけれど。それも随分前に途絶えてしまって。
お互い遠慮がちに伸ばしていた触手は、時間の流れの中にいつしか埋もれてしまった。


その、シゲオ君の家の前を通ると、なんと脚立の上では中年のオジサンが庇のペンキ塗りをしているではないか。
そしてそれを、年輩のご夫人が不安そうに見つめて……。

もしやシゲオ君とお母さん?
ノホホンと「あの頃」モードだった私の頭は、突如高速回転を始める。


……しかし、私は声を掛けられずに通り過ぎてしまった。

それは、ペンキ塗りの邪魔をするのがはばかられたからだろうか。
それとも、帰る時間が気になりだしていたからだろうか。

いや、本当はその触手を動かすのが怖かっただけなのかもしれない。

長い年月の中で、その上に堆積してしまったものはあまりにも多すぎる。
今さらそれを動かしたら、いっぺんに塵が舞い上がってしまいそうで。

そっと、その場を立ち去るしかなかったのかもしれない。

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2007/04/24

畳の匂い

7kituneazami去年の夏だっただろうか。

お休みということもあって、いつものウォーキングはウチの子と一緒。

それまで生い茂っていた夏草もキレイに刈り取られて。
草いきれが立ちのぼる土手の小道を歩いていたら、ふいに畳の匂いを思い出した。


見れば、イグサほど長くはないけれど。
草刈りの済んだ斜面には、それとよく似た草が投げ出されている。

ほど良く乾いたそれは、とても気持良さそうで。
ヨッコラショと腰を下ろすことに。

「あぁ、畳みたいでイイ匂い……」

するとウチの子は「畳って、おばあちゃんちにあるヤツ?」と言う。
そうか!家には和室がないんだった。

今のマンションに越す時、和室を木床にリフォームしたから。
たまに行く実家でしか畳を知らないのかもしれない。


畳と言えば。

現在のスタイロ畳と違って、昔のは芯材がワラでできた畳床。
だからとっても重かった。

何年かに一度は、表面のイグサで出来た畳表を張り替えたり。

重いそれを庭に出して、ハの字に立てて日に干していたのを覚えている。
畳を取り除くと、下に敷いてあったDTTまみれの古い新聞紙が顔を出したり。
(今思うと恐ろしいけれど)
そんなことも懐かしい。

畳屋さんが家の庭でする、表替えの作業を見るのも楽しみだった。
子供の記憶だから定かではないけれど。
太さ3、4ミリくらいはあろうかという長い針で、イグサを畳床に縫い付けていたような気がする。肘をテコにしてグイグイと。

剥がされた古い畳表は、自動的に子供達が遊ぶゴザになって。
タンスが置かれていた跡は日に焼けず、かすかに青い色が残っているのも面白かった。


……で、そうなると。
つい、キャンディーズの『微笑がえし』を思い出してしまう年頃の私。

♪畳の色がそこだけ若いわぁ〜

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2007/01/13

鉛筆削り/その2

Enpituf12H、HB、3B。
鉛筆にはさまざまな硬さがあって。

「H」は「ハード」の略で、Hから9Hまで数字が大きくなるほど硬くなる。

一方「B」は何の略なんだろう、と思いつつ調べもしなかったけど。
それは「ブラック」の略だと知って、納得。
これは数字の順に柔らかくなって、Bから8Bまであるんだそうな。

そして、「H」と「B」の中間が「HB」。

子供の頃、なんとなくノートに書く時に使っていたのは「HB」。
それが高校生の頃には「2H」になってたと思う。

柔らかい鉛筆はなめらかで書きやすい。
でも、右から左へと書き進む内に、手で擦れた所が汚れてしまうのがイマイチ。
消しゴムをかける時も、柔らかいと消しにくいような気がする。
それで、握力が強くなるに連れて、少し硬めを選ぶようになったのかもしれない。


ところで、鉛筆にはもう一つ「F」というのがある。

自分がそれを使いだしたのは大人になってから。
これは「HB」と「H」の中間だそうで、「ファーム(丈夫)」の略だとか。

なめらかな書き味なのに、そんなに手も汚れないし。
実際に使ってみるととっても書きやすいことを知った。
それは、「H」から「B」へのどれにも属さない、特別な一本のような気がする。

だから最近の私は、もっぱらコレを使っている。
昔のようにノートをとるわけでもないし、ちょっとしたメモを書くにはコレが一番。
気負わずに、スーっと滑るように書ける。(消しにくいのは気にしない)

とはいえ、何度も書き直す絵の下書きには、未だに「2H」を使っている私。

どうやら集中する時には「2H」。
書き味を楽しむ時には「F」と、鉛筆を使い分けているようだ。


柔らかくて先の丸まった鉛筆を紙の上に滑らせても、黒鉛の粉は紙の目の奥までは届かない。ザッと表面をかすめるだけ。
でも、だからこそ味わいのある線が引ける。ホンワカした柔らかみがある。

逆に芯を尖らせると、その先は紙の繊維の奥にまで入り込む。
細かなその綾までもなぞることができる。


いつもその芯先を尖らせていた若い頃は、それが自分でも痛かったけれど。

先の丸い柔らかな鉛筆の書き味を知った今。
そっと紙の表面を撫でる「F」の感触。

今の私は、それも大切に味わいたいと思う。

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2007/01/10

鉛筆削り/その1

Enpituヌイグルミの耳のように、ちょこんと上に飛び出した小さな突起。

それを両側から押さえると、小さな丸い穴をふさいでいたギザギザが開く。
鉛筆をその穴に入れ、耳の付いた押さえを引き出して手を離すと鉛筆が固定される。
あとは反対側のハンドルをグルグル回すだけで、ガリガリと鉛筆が削られていく。

あの懐かしい手動式の鉛筆削り。

小学生の頃、兄の机にあったそれで、私も鉛筆を削っていた。
でも、私の記憶の中では、当の兄や父は不思議と小刀で削っている。

ささがきゴボウの作り方は、よく「鉛筆を削るように」なんて言われるけれど。
ちょうどそんなふうに、シュッシュッと削っていた。
そしてそれは、何か厳かな儀式のようにも見えた。

私がそれを真似ても、上手には削れなかったけれど。
降りたたむと4Cmほどの大きさで、それを広げるとカミソリの歯が出てくるボンナイフ。それは、当時どの子の筆箱にも入っていたものだった。


鉛筆削りが電動になる頃、私の筆箱からもしばらくボンナイフが消えていた時期がある。しかし、鉛筆デッサンの勉強を始めた頃、私はまたカッターナイフで鉛筆を削りだした。

顧問の先生から指示されていたのは、5Bや6Bの鉛筆で描くこと。
でもそうすると、柔らかいその芯はスグに丸くなってしまうから。
多めに削り出した芯の先を、ナイフで細く細く削っていた。


立体の白い石膏像を、平面の白い紙の上に写し取るデッサン。

陰影を描くというより、その面の連なりを細い鉛筆の線でなぞっていく。
それは描くと同時に、その立体を自分の中に捉えるための作業。

上手い人が描いたデッサンの線は、石膏像の輪郭を超えて、あたかも見えない裏側にまで続いているように見える。
手を伸ばせばさわれるようなほどに。

そんなデッサンが描けるよう、私は鉛筆を削るのだった。
鉛筆の先を研ぎ澄まして、ひたすら石膏像の表面をなぞるのだった。


そして今、私はキーボードに向かって、その時々の自分の気持をなぞっている。
そしてそれを写し取ろうとしている。
頭の中の鉛筆を削りながら。
 
 
●kokoさんの素敵な鉛筆の思い出はこちら(^^) → 青空生活: えんぴつ

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