2008/07/01

ねんきん特別便

Nenkinなんと私の元にもやって来ました。

「ねんきん特別便」が。

年金記録問題が騒がれたのは記憶に新しいけれど。
なんでも、年金記録にもれがある可能性の高い人に送られているんだとか。

さっそく非常持ち出し袋にしまってある年金手帳を確認してみたら。国民年金の加入記録には間違いがなさそうで一安心。

でも、厚生年金の記録がないのがチョット気になる。

今までにも何度か書いたように。
卒業してからの二年間、私は会社に勤めていたことがある。

ほんの短い間だったけど、自分にとっては忘れられない経験。
だから厚生年金の加入証は、大切に保管していた。
こんな自分でも会社勤めをしていた、というささやかな勲章なんだから。

それが無かったことにされてはたまらない。
(再度確認のハガキが送られてきて、慌てて返送した私も私ですが)


あれは、TBSが新社屋になるずっと前。
かつて「赤坂5丁目ミニマラソン」のコースでもあった三分坂を、下りたところにあったその小さな会社。

毎朝地下鉄の駅を出て交番の角を曲がるたび。
「今日はイヤなことが起こりませんように」なんて祈るような気持で向かった会社。
でも、その願いは叶わないことの方が多くって。
結局ニ年しか通えなかったその会社。

そして、今はもうすでに存在していない会社。

当時の自宅の住所を記入しろと言われても。
市が合併しちゃって、今では名前が変わってる。

もう四半世紀以上前のこと。
歳月は確実に過ぎてしまってる。


なのに、今でもその会社の電話番号を覚えている自分に驚いた。

受話器から「はい、スタジオ○○です」という声が聞こえてきそうで。
ふと、その番号に電話してみたい誘惑に駆られてしまった自分が可笑しい。

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2008/01/30

バタークリームの時代

Coffee_cupある日のコーヒータイム。
そこには、家内がスーパーで買ってきたロールケーキのようなものが添えられていた。

ちょっと小さめなそれはモチモチっとした食感で、濃厚なクリームもなかなかに美味しい。


しかし、しばらくすると家内がボヤき始めた。
「…あんまり、美味しくな〜い」

なんでも、そのスポンジが気に入らないようだ。
「なんかこう…。エアリーじゃないのよ!」

なんと。「エアリー」ですか!!(・o・)

まぁ、言われてみれば確かに。
フワフワの空気感がスポンジケーキの魅力だとすれば。
それを極めたのがシフォンケーキのような気がするし。
目の前のコレは、その対極にあるのかもしれない。

でも、このモッチリ感も捨てがたいんだけどなぁ…。

などと私が未練がましく思っていると。
今度はそのクリームにも文句をつけ始めた。
「なんか、昔の『バタークリーム』みたい…」

うおぉぉぉ・・・。

今度は「バタークリーム」ですか!!!
その瞬間、私は懐かしさのあまりのけぞりそうになってしまった。


…生クリームになんてお目にかかれなかった子供の頃。
クリスマスケーキと言えばバタークリームだった。
(上に「仁丹」みたいな銀色の飾りがまぶしてあったりして)

それはその昔、近所にあった「にかい屋」のショーケースの中にも鎮座ましましていたものだ。
ただのガラスの陳列棚に並べるには、バタークリームが必然だったのだろう。
(「名糖アイスクリーム」と書かれた、小さな冷凍庫は店頭にあったけど)
「保形性に優れているため、常温保存をするお菓子に使われることが多い」というのも頷ける。

当時はそれでも満ち足りていたけれど。
やはり初めて生クリームを食した時の感動は忘れられない。

「世の中にこんなに美味しいものがあったなんて!」


昔懐かしいコッテリとしたあの「バタークリーム」。
ある意味それは、あの時代の象徴と言っていいのではないだろうか。

その時私は、口の中に広がる濃厚なクリームの味わいと共に、確かに「あの時代」を噛み締めていたはずである。

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2007/12/22

夕暮れのモミの木

07tree出せば出したで掃除が大変だし。
後片付けのことを考えると、後回しにしたくなるんだけれど。

もうすぐクリスマス。
そろそろツリーを出さなくちゃ。

誰が喜ぶワケでもないのに…。

なんて準備していると、今年は珍しくウチの子が参加。
任せてたら、なんだかモールのミイラみたいになっちゃったけど。
ま、こんなもんでしょ。

…あれは小学5年生の今頃。
私は両親に連れられて駅前の商店街を歩いていた。

早い夕暮れにあたりはすっかり暗くなって、お店の明かりが暖かそうに灯っていた。
そんな一画にある花屋の前に差しかかった時。
突然、父は店頭にあったモミの木を買ってくれると言った。

それは高さが1m以上もありそうな鉢植えで。
てっぺんに付ける星やモールの他に、ささやかな電飾まで買ってくれると言う。

しかし、当時は皆そうだったけれど。
決して豊かではない暮しに、それはあまりにも不釣り合いに思えた。
だから喜びが大きい分、「最後の楽しい思い出にしようとしているのではないか?」と子供心に余計な心配をしてしまったほどだった。
(「幸せすぎて怖い」という言葉があるのなら、その時の私がまさにそうだった)

今から考えれば、高度経済成長の真っただ中。
その余波が、やっと我が家のような下々の生活にも行き渡った頃だったのだろうか。

ともあれ、私の不安は杞憂に終わり。
最初おずおずと足先を浸していたものに、やっと身を任せることに慣れていったのだった。

さて、それからは毎年その飾り付けをするのが私の楽しいお役目になった。
もしかしたら、それは私が実家を出るまで続いていたかもしれないし。
(あるいは同居していた姪に引き継いだのかも?)
その後も何年かは、玄関脇にその鉢植えが置いてあるのを、帰るたびに目にしていたような気がする。


そして今、家にあるのは合成樹脂製の小さなツリー。

それをハンズで買ってからも、もう四半世紀以上が経っている。
少しずつ増えていたオーナメントも、買わなくなって何年になるだろう。
それでも毎年、クリスマスが近づくとこうしてツリーを出している。

そしてあの時の夕暮れの商店街を思い出している。

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2007/09/28

緑の黒髪

9_27higanbana_m_2前回の「あかなめ」先生。
担任だったのが短かったこともあって、ほとんど記憶がないんだけれど。
それでも忘れられない出来事があった。


あれは図工の時間。
先生と生徒が、電車ゴッコで遊んでいる絵を描いた。
ルンルンで描き終えたそれを、意気揚々と先生の所へ持って行くと。

「髪の毛はこんな色じゃないでしょう?」と言われてしまった。

…たしかに。
肌色に、その色がキレイに映ったのだろうか。
その時私は、それを緑色で塗っていたのだ。

どうやら、好きに描けばいいお絵書きと、図工の時間に描く絵は違うらしい。
そんなことを悟った私は、今度はそれを茶色に塗り直した。
「うん。この方がナチュラル」(と、思ったかどうかは分からないけど)
私は、今度こそと意気込んで先生の所へ行った。

すると先生は「髪は茶色じゃないでしょう?」と言って、それをまた突き返した。
(あの頃、茶パツの人はいなかったですもんね)

…はて、だったら何色に塗ればいいのだろう?
困惑して立ちすくむ私に、先生は怒ったようにこう言った。

「髪は黒に決ってるでしょう!」

…あぁ。そうだったのか!
私はまさに目から鱗が落ちるような気がした。
自分はそれまで、夢見心地で絵を描いていたのだろうか。
その時、私は絵にはお約束があることを知ったのだった。


しかし、あれから時は流れ。
高校生になった私が美術を志した時、顧問の先生からこう言われた。

「君は固有色にとらわれすぎるね」(…はぁ?)
「白い紙を丸めた絵を描いたら、君はグレーでしか色を付けられないでしょう?」

…まさにおっしゃる通り。
当時の私は、肌色だったらその濃淡に茶色い影しか付けられなかった。
でも、ルノワールの絵なんかを見ると、同じ肌色でも影の部分には紫色や緑色が混じっている。
そしてそれが、ふっくらとした肌に透明感を与えている。


小学校で固有色を教えられ、今度はそれにとらわれていると指摘され。
左右に大きく振り子を揺さぶられた私。
アッチへコッチへと小突かれて。
結局小さくまとまっちゃって。

あの時「綺麗な緑色ね」と言ってもらえていたら、今頃どんな絵を描いていたのだろう…。

なんて思ったりする私は、ウチの子に絵の描き方を教えたことはない。

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2007/09/25

附子

Yuyake2ある時、ポージィさんのブログに萩の花が。
それで思い出したのは、中学の教科書に載っていた狂言『萩大名』。

そんなことを書き込んだところ。
ポージィさんが習った狂言は『附子(ぶす)』だった、とのお返事をいただきました。
(教科書でも一度は古典芸能に触れられるようになっているんですね)

そこでさっそく検索してみると、とっても有名な狂言のようだけれど。

砂糖のことを、猛毒の「附子(ぶす)」だと言って一人占めしていた主人。
その留守中に、こっそり食べてしまった太郎冠者達。
はたしてその言い訳は‥‥。というあらすじを読んで驚いた。

私はナゼかこのお話を知っている。

小学校一年生の時、担任の先生に所用があって。
代わって教室に来た、教頭先生が聞かせてくれたお話によく似ているのだ。

砂糖が水飴で、主人はお寺の和尚さん。
そして、召し使いの若者の冠者達は小僧達と、設定を変えた一休さんのお話。
その、トンチの効いた言い訳が面白かった。

それもそのはず。
検索したサイトさんには「一休さんのとんち話を受け継いでいる」との記述も。
(『一休さん』が、そんなに古くからあるお話だったなんて!)


それはそうと、教頭先生のお話の後も、一、二度そんなことがあって。
(別の先生の『あかなめ』のお話は面白いけど怖かった)
私はそんな時に聞けるお話が楽しみだった。

当時、担任の先生は新任の若くて優しい女性教師。
休み時間もまとわりついていたほど、大好きな先生だった。

記憶の中のその先生は、いつも微笑んでいたけれど。
ただ、時折寂し気な表情になることもあったような。
そしてそのまま、一学期か二学期が終わる頃、突然退職してしまった。

後任になったのは、ベテランの女性教師。(『あかなめ』の先生だったかも)
やがて自習の時間にお話をしてくれる先生もいなくなり。
私はそんな変化を味気なく感じていた。


今から考えると、自習の時間のお話は、周りの先生の精一杯のサポートだったのだろうか。
私はその時、「大人の事情」というものを知ったのかもしれない。

そして、学年が上がるごとに先生も厳しくなって。
それが「お兄さんになる」ということだと悟るまで、そう時間はかからなかった。

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2007/05/28

あの夏の日

5_12dote1あれはおととしの夏。
後二日で夏休みが終わってしまうという日だった。

いつものように、私がウォーキングに出掛けようとすると、ウチの子が一緒に行くと言う。

おや、どうした風の吹き回し。
ま、一人で行くより二人の方が楽しいし。こちらとしても異存はない。


河の土手にあるサイクリングロードに立つと、遮るもののない視野に広がるのは、見渡すかぎりの青い空。
一発でその爽快感のトリコになってしまったらしい。(ホレごらん♪)
それからは、休みの日になると私に付き合うようになった。

河川敷には、サッカーやボール投げに興じる人々が見える。
それに刺激されたのか、ある日「キャッチボールをしよう」と言いだした。
せっかく二人いるんだし。よし、お相手してあげようではないか。

学校の休み時間に友達としていたというだけあって。
久しぶりに受けたボールは一直線に胸元に飛込んで来る。

それに負けじと張り合うけれど。もともとそんなに得意じゃないし。
今まで山なりのボールしか投げたことがなかったことに気づいた私。
もしやその時が、自分が水平よりも下に向かって投げた、初めての経験だったのではないだろうか。


それに味をしめたのか。
冬休みの頃にはもう、キャッチボールするために河原に通う感じになってきた。
そして春休みになったら、お次はサッカーである。
キーパー役をやりたいから、今度は私にシュートしろと言う。

ちょっとちょっと。
体育の時間でさえ、足の内側で蹴るインサイドキックでゴマかしてたのに。
足の甲でシュートなんて出来ません。
どうしてもトウキックになっちゃうから、痛いの痛くないのって。
その頃の私の爪先は、常に熱を持って疼いておりました。

そして気がつくと、なんと私のスネには筋肉が付いているではないか。
それまで、それは棒状に太く発達するもんだとばかり思っていたけれど。
平らに広くなるということを、その時初めて知ったのであります。
 
 
5_12dote2そんなこんなで一年が経ち、また夏休みを迎える頃。
親と遊ぶのにも飽きたウチの子は、ひたすら走りだした。

私に麦茶の入ったペットボトルを預けるや、サイクリングロードをかけていく。
そして折り返した後、歩いてきた私と落ち合って麦茶を飲むのが日課になった。
(あたしゃ麦茶持ちですかい?)

そんな一夏を過ごし、また涼しくなった頃。
ウチの子は、もう一緒に行こうとは言わなくなった。
(麦茶の切れ目が縁の切れ目なのね)

今では勝手に一人で出掛けていく。
そして、キャッチボールとサッカーから解放された私は、また黙々とウォーキングするのです。


思えばあの夏の日。
土手の道を走り去る後ろ姿を見送った時から、それは分ってたことなのかもしれない。

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2007/05/16

竹馬の友/その2

5_8sirotume期せずして竹馬乗りがウケた後。
私はまた、去年のように近所の散策に出た。


それは中学校への当時の通学路。
でも、大通りから一本入ったその小道にも昔の面影は残っていなかった。

途中で横道に入り、さらに一本横の道を引き返していると。
はからずも、またあの道に出てしまった。

引越す前に住んでいた家がある、路地に通じるあの道。

アキオ君の家の前を通り、タアちゃんちの角を曲がってかつての我が家を通り過ぎると、斜め前はシゲオ君の家。
共に竹馬で遊んだ幼馴染みを竹馬の友と言うのなら、シゲオ君こそまさにそうである。
それこそ毎日のように遊びに行ったものだった。


それが、同じ町内とはいえ中学生になる頃私が引越してからは、パッタリと行かなくなって。
私より一つ下だったシゲオ君も中学生になり、坊主頭で再び出会った時。
もともとシャイだった彼は、私に対しても恥ずかしそうにうつむくだけだった。

その後も、年賀状のやり取りだけは続いていたけれど。それも随分前に途絶えてしまって。
お互い遠慮がちに伸ばしていた触手は、時間の流れの中にいつしか埋もれてしまった。


その、シゲオ君の家の前を通ると、なんと脚立の上では中年のオジサンが庇のペンキ塗りをしているではないか。
そしてそれを、年輩のご夫人が不安そうに見つめて…。

もしやシゲオ君とお母さん?
ノホホンと「あの頃」モードだった私の頭は、突如高速回転を始める。


…しかし、私は声を掛けられずに通り過ぎてしまった。

それは、ペンキ塗りの邪魔をするのがはばかられたからだろうか。
それとも、帰る時間が気になりだしていたからだろうか。

いや、本当はその触手を動かすのが怖かっただけなのかもしれない。

長い年月の中で、その上に堆積してしまったものはあまりにも多すぎる。
今さらそれを動かしたら、いっぺんに塵が舞い上がってしまいそうで。

そっと、その場を立ち去るしかなかったのかもしれない。

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2007/04/24

畳の匂い

7kituneazami去年の夏だっただろうか。

お休みということもあって、いつものウォーキングはウチの子と一緒。

それまで生い茂っていた夏草もキレイに刈り取られて。
草いきれが立ちのぼる土手の小道を歩いていたら、ふいに畳の匂いを思い出した。


見れば、イグサほど長くはないけれど。
草刈りの済んだ斜面には、それとよく似た草が投げ出されている。

ほど良く乾いたそれは、とても気持良さそうで。
ヨッコラショと腰を下ろすことに。

「あぁ、畳みたいでイイ匂い…」

するとウチの子は「畳って、おばあちゃんちにあるヤツ?」と言う。
そうか!家には和室がないんだった。

今のマンションに越す時、和室を木床にリフォームしたから。
たまに行く実家でしか畳を知らないのかもしれない。


畳と言えば。

現在のスタイロ畳と違って、昔のは芯材がワラでできた畳床。
だからとっても重かった。

何年かに一度は、表面のイグサで出来た畳表を張り替えたり。

重いそれを庭に出して、ハの字に立てて日に干していたのを覚えている。
畳を取り除くと、下に敷いてあったDTTまみれの古い新聞紙が顔を出したり。
(今思うと恐ろしいけれど)
そんなことも懐かしい。

畳屋さんが家の庭でする、表替えの作業を見るのも楽しみだった。
子供の記憶だから定かではないけれど。
太さ3、4ミリくらいはあろうかという長い針で、イグサを畳床に縫い付けていたような気がする。肘をテコにしてグイグイと。

剥がされた古い畳表は、自動的に子供達が遊ぶゴザになって。
タンスが置かれていた跡は日に焼けず、かすかに青い色が残っているのも面白かった。


…で、そうなると。
つい、キャンディーズの『微笑がえし』を思い出してしまう年頃の私。

♪畳の色がそこだけ若いわぁ〜

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2007/01/13

鉛筆削り/その2

Enpituf12H、HB、3B。
鉛筆にはさまざまな硬さがあって。

「H」は「ハード」の略で、Hから9Hまで数字が大きくなるほど硬くなる。

一方「B」は何の略なんだろう、と思いつつ調べもしなかったけど。
それは「ブラック」の略だと知って、納得。
これは数字の順に柔らかくなって、Bから8Bまであるんだそうな。

そして、「H」と「B」の中間が「HB」。

子供の頃、なんとなくノートに書く時に使っていたのは「HB」。
それが高校生の頃には「2H」になってたと思う。

柔らかい鉛筆はなめらかで書きやすい。
でも、右から左へと書き進む内に、手で擦れた所が汚れてしまうのがイマイチ。
消しゴムをかける時も、柔らかいと消しにくいような気がする。
それで、握力が強くなるに連れて、少し硬めを選ぶようになったのかもしれない。


ところで、鉛筆にはもう一つ「F」というのがある。

自分がそれを使いだしたのは大人になってから。
これは「HB」と「H」の中間だそうで、「ファーム(丈夫)」の略だとか。

なめらかな書き味なのに、そんなに手も汚れないし。
実際に使ってみるととっても書きやすいことを知った。
それは、「H」から「B」へのどれにも属さない、特別な一本のような気がする。

だから最近の私は、もっぱらコレを使っている。
昔のようにノートをとるわけでもないし、ちょっとしたメモを書くにはコレが一番。
気負わずに、スーっと滑るように書ける。(消しにくいのは気にしない)

とはいえ、何度も書き直す絵の下書きには、未だに「2H」を使っている私。

どうやら集中する時には「2H」。
書き味を楽しむ時には「F」と、鉛筆を使い分けているようだ。


柔らかくて先の丸まった鉛筆を紙の上に滑らせても、黒鉛の粉は紙の目の奥までは届かない。ザッと表面をかすめるだけ。
でも、だからこそ味わいのある線が引ける。ホンワカした柔らかみがある。

逆に芯を尖らせると、その先は紙の繊維の奥にまで入り込む。
細かなその綾までもなぞることができる。


いつもその芯先を尖らせていた若い頃は、それが自分でも痛かったけれど。

先の丸い柔らかな鉛筆の書き味を知った今。
そっと紙の表面を撫でる「F」の感触。

今の私は、それも大切に味わいたいと思う。

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2007/01/10

鉛筆削り/その1

Enpituヌイグルミの耳のように、ちょこんと上に飛び出した小さな突起。

それを両側から押さえると、小さな丸い穴をふさいでいたギザギザが開く。
鉛筆をその穴に入れ、耳の付いた押さえを引き出して手を離すと鉛筆が固定される。
あとは反対側のハンドルをグルグル回すだけで、ガリガリと鉛筆が削られていく。

あの懐かしい手動式の鉛筆削り。

小学生の頃、兄の机にあったそれで、私も鉛筆を削っていた。
でも、私の記憶の中では、当の兄や父は不思議と小刀で削っている。

ささがきゴボウの作り方は、よく「鉛筆を削るように」なんて言われるけれど。
ちょうどそんなふうに、シュッシュッと削っていた。
そしてそれは、何か厳かな儀式のようにも見えた。

私がそれを真似ても、上手には削れなかったけれど。
降りたたむと4Cmほどの大きさで、それを広げるとカミソリの歯が出てくるボンナイフ。それは、当時どの子の筆箱にも入っていたものだった。


鉛筆削りが電動になる頃、私の筆箱からもしばらくボンナイフが消えていた時期がある。しかし、鉛筆デッサンの勉強を始めた頃、私はまたカッターナイフで鉛筆を削りだした。

顧問の先生から指示されていたのは、5Bや6Bの鉛筆で描くこと。
でもそうすると、柔らかいその芯はスグに丸くなってしまうから。
多めに削り出した芯の先を、ナイフで細く細く削っていた。


立体の白い石膏像を、平面の白い紙の上に写し取るデッサン。

陰影を描くというより、その面の連なりを細い鉛筆の線でなぞっていく。
それは描くと同時に、その立体を自分の中に捉えるための作業。

上手い人が描いたデッサンの線は、石膏像の輪郭を超えて、あたかも見えない裏側にまで続いているように見える。
手を伸ばせばさわれるようなほどに。

そんなデッサンが描けるよう、私は鉛筆を削るのだった。
鉛筆の先を研ぎ澄まして、ひたすら石膏像の表面をなぞるのだった。


そして今、私はキーボードに向かって、その時々の自分の気持をなぞっている。
そしてそれを写し取ろうとしている。
頭の中の鉛筆を削りながら。
 
 
●kokoさんの素敵な鉛筆の思い出はこちら(^^) → 青空生活: えんぴつ

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2006/08/24

思い出作り

Omoide1お盆休みのある晩。
家内が明日ランチに行こうと言い出した。

実家には行っちゃったし、プールはお盆休みに入る前に行っちゃったし。
余裕のある今のウチに、夏休みの思い出を作ろうという事らしい。

以前、友人と地下鉄の駅近にあるお店でランチをしたところ、美味しかったのだと言う。
なんでも、1,000円でデザートのケーキまで食べ放題のバイキングだとか。

赤坂の溜池山王まで行くのは大変だけれど。
夏休みのイベントとしては丁度いいかもしれない。
「それだったら近所のロイヤルホストの方がイイ」と言うウチの子には、「東京見物だと思って」と説得した。

ただ、一つだけ不安材料が。
土日が休業のそのお店、はたしてお盆休みに営業してるのだろうか。
でもま、赤坂なら以前の勤務先。
土地カンもあるし、その時はなんとかなるだろう。ということで、見切り発車した。


見事に晴れ渡った、海水浴日和のその日。
「こんな日にランチに行くのはウチくらいじゃない?」
そうボヤきながら、言い出しっぺの家内の案内で現地に行くと。
…案の定お休みだった。

仕方なく地上に出たものの、そこがどこだか皆目わからない。
だいたい、当時「溜池山王」なんて駅は無かったんだから。
大昔の土地カンなんて、日々変容する大都会では何の役にも立たなかった。
ビルの谷間を彷徨う一家に、容赦なく夏の日射しが照りつける。

そこで私は閃いた。「表参道ヒルズに行こう!」

新宿に戻るくらいなら、表参道で途中下車したって同じ。
その提案は、以前私が行った時、散々羨ましがっていた家内の心を動かしたようだ。

しかし、その時は雨の平日。晴れた休日の人混みは半端ではなかった。
とても食事どころの騒ぎじゃなく、近くのセルフサービスのお店に入ったけれど。
「もう、東京見物はヤだ…。」と言う息子のつぶやきが、私の胸に突き刺さる。

ふと目を遣れば、ガラス張りの窓から見えるのは、GAPのビル。
かつてそこは、あのセントラルアパートだったのに。
家内は、そこにあった会社の内定を蹴って・・・私と知り合ってしまった。
それもまた、運命のイタズラか。
(だから今、不満そうにスパゲッティを啜る君がいる。)


不発に終わった思い出作り。老兵は消え去るのみである。

ほうほうの体で特急停車駅まで帰り、後は家までタクシーで、となった時。
「カラオケして帰ろう!」と家内が最後のアガキを見せた。
ところが、考える事は皆同じらしい。行ってみたら1時間15分待ち。
…最後に残った、いちるの望みまで断たれてしまった。


恐るべしお盆休み。
こんな時は、気軽に出歩くもんじゃないとの教訓を得た。

しかし、結構手近で夏休みを済ましてる人がいると知ったのも、また今回の収穫だった。

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2006/08/09

夏をあきらめて

Parasol台風の影響で今日は雨。

ところで、今年は関係無さそうだけれど。
冷夏には、ぐずついた天候といった印象がある。

海やプールに行くんだったら、やっぱり晴れて欲しいし。
夏が待ち遠しかった若い頃。
砂浜やプールサイドで、曇った空を恨めしく眺めた夏は多かった。

ただ、気温自体は平年より2〜3度低いだけで、寒いとまではいかない。
でも、本当に寒い夏があった。
先日のお天気ニュースで思い出したけれど。
1993年の夏は、天気だけじゃなく、実際に寒かった。


昔は夏になると、大磯のロングビーチによく行ったものだ。
それは、家内が割引券を持ってたから。
現金なもので、それが手に入らなくなってからは足が遠のいたり。

しかしある時、再び彼の地を訪れようという話になった。
遅ればせながら免許も手に入れたし、小さかったウチの子に、海を見せてやろうという事になったのだ。


時すでにバブルははじけていたけれど。
不況の波に足下をすくわれるには、まだ間があった。
呑気な私達は、たまには「パァッと」と、プリンスホテルまで予約した。

初めて東名高速に乗り、西湘バイパスを走り抜け、ロングビーチを通り越して二宮まで行っちゃったのは御愛嬌。
なんとかホテルに辿り着いた。

・・・まではよかった。

しかし、予約したのは6月。
その年が記録的冷夏になるなんて思いもしなかった。

ホテルの部屋からは、陰鬱な湘南海岸が見えるだけ。
頭の中では、サザンの「夏をあきらめて」がリフレインしている。

それでも、なんとか一日だけ薄日が差したけれど。
気温は22度。プールの水温は20度だとか。
これでは、厚手のバルキーセーターを着込んだ、冬の暖房の設定温度並み。
裸も同然の水着姿に、吹き付ける風は冷たい。

その時撮ったビデオに映っているのは、冷たい水を嫌がる我が子の泣き顔ばかり。
清水の舞台から飛び下りた親の気持は通じなかった。


その後、場所を変えて一応のリベンジは果たせたものの。
家内には、その記憶が未だにトラウマになっているらしい。
(なんたって、すべては音頭取りの家内の胸一つ)

予約して、天気が悪かったら泣くに泣けない。
それだったら晴れた日に、近場のプールに行く方が気が楽。

考えてみれば、泳ぎに行くための予約をしなくなって、もう10年ほどになる。

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2006/06/18

父の日に寄せて

Maruta今日は父の日。

どこに行ってもカーネーションだらけだった母の日に比べると、地味なのは仕方ないのかも。

自分が子供だった時を思っても、これといって何もしなかったような気がするし。


もともと、父とはクールな関係だった。

別に、仲が悪かったというワケじゃないんだけれど。
親子喧嘩をした覚えもないし、そこまで強い感情を抱いていなかった。

聞くところによると、長兄の頃は厳しい父だったらしい。
それが、末っ子の私の頃には、ずいぶん丸くなって。
宴会のお土産に、寿司の折詰めを持って帰った姿とは、別人のようだ。

ただ、厳しかった頃の記憶もうっすら残っていて。
反抗心が芽生えなかった代わり、甘えようとする気持もなくしたのかもしれない。


去年のおねだりでも書いたけれど、私はおねだりをしない子だった。
だから、父にとっては可愛がり甲斐のない子だったと思う。

この前、父に横浜に連れてってもらった時の写真を思い出したけれど。
それを見て意外に感じたのは、自分が覚えていない事だけではなく、父と二人だけで行ったと聞いたから。
きっと、「断る理由がない」という理由だけで付いて行ったのだろう。

その道中の居心地の悪さを想像すると、苦笑いが込上げてくる。
それは、新入社員だった私が、初めて一対一で上司に飲みに誘われた時のような、気詰まりさだったのではないだろうか。


そんな父との関係が変わったのは、他の兄弟が結婚して家を出た後。
会社勤めを始めた私と、両親との三人暮らしになってからだ。

ちょうどその頃は、家を新築したばかり。
私が早めに会社から帰れた時には、買ってきたケーキをその応接間で食べてみたり。

ソファーに座って、紅茶をすすりながらケーキを食べる。
クリスマスでも誕生日でもないのに。
そんなおままごとのような事をしたのは、子供の頃できなかった事をやり直したかったのかもしれない。

暮には一緒に駅前まで行って、お正月用のしめ縄や輪飾りを買って。
そんな事の一つ一つが新鮮だった。

私が大人になって、初めて訪れた自然な父子の時間。

それは、長兄一家が同居するまでの、ほんの一、二年だったけれど。
賑やかだった我が家に束の間現れた、蜃気楼のような静かな時間だった。

その後、会社勤めに挫折した私は、結局結婚するまで実家にいた。
敷かれたレールの上を歩く事しか考えなかった私にとって、初めて経験した大きな挫折。
でも、そんな私が羽を休められたのは、まぎれもなく父のいる家だった。


子供の頃、おねだりができなかった自分だけれど。
私は大人になってやっと、父に甘えられるようになったのかもしれない。

お彼岸のお墓参り。
ひとり墓園の長い歩道を歩きながら、そんな事を考えたりしている。

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2006/06/03

繭の中の世界

5_25_1もう、ずぅっと前のような気がしてしまうけど。

ゴールデンウィーク。
実家にも顔を出して来た。
母の日には早いけれど、誕生日が4月だから。
いつからか、GWに行くのが恒例になってしまった。

昼間からビールを飲んだりして。
いい気持になったところで、散歩がてらに外へ。


考えてみれば、もう何年も近所は歩いていない。
駅から実家までの道を、ただ往復するだけ。
かつて自分の世界は、そこだけだったのに。

中学生になる時に一度引っ越ししたものの、同じ町内を移動しただけだし。
その町は自分が生まれて育った所だ。

以前住んでいた家の前は、両端がT字路になった路地。
大人になってからそこを通ったけれど、記憶していたよりずっと狭くて驚いたものだ。

両側に6軒ずつ家が並んだ、こじんまりした空間。
だからそこは、子供が遊ぶには格好の場所だった。
ロウセキで絵を描いたり、なわとびをしたり。
自転車を練習したのもそこだった。


それが成長するにつれ、だんだんそのテリトリーも広がって。
自転車で遠出をするようになると、その範囲はもっと広がった。

すると、幼い頃は狭いながらも密だったその地図は、行動半径が広がるにつれてだんだん粗くなり、中心から放射状に伸びる線に変わった。
そして、その線は所々で交差して、少しいびつなクモの巣状の編み目に。
目的地が遠くなった代わりに、その途中はただの風景へと。
やがて大人になると、もはやその糸の上を移動するだけになってしまった。

でも自分は今、その原点とも言うべき糸口にいる。


何年かぶりにこうやって歩いてみると、頭の中の地図と、現実との違いに唖然とする。
まるで箱庭の中を歩いているようだ。
シゲオ君ちにタアちゃんち。アキオ君の家もある。
でも、何かが違う。
頭の中の地図は緻密でも、何年も広げないでいる内に、黄ばんでしまったようだ。

けれど、きめ細かく編み込まれたそれは、切ない柔らかさで包んでくれる。
その感触は、羽化する前のさなぎが、やすらかな惰眠をむさぼる繭の中に似ているのだろうか。


帰り際、その路地に目をやると、さっきまでいなかった幼い兄弟が遊んでいた。
その子達にとっても、きっとその路地は世界の全てなのだろう。
あの頃の自分のように。

もう、その世界の住人ではなくなってしまった自分。

そんな自分は、そこに入ってはいけないような。
そんな気がして、そそくさと地図をたたんだのだった。

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2005/09/05

撮影現場その3

とはいえ、いつまでもお邪魔しているわけにもいかない。
結局は、衣装さんと一緒にハンガーに囲まれた寝室にこもっているしかなかった。

我が家であって、我が家でない…。
こんな時の所在なさというのは何とも言えないものだ。

お昼休みにスタッフが出払った家で、(エアコンは止めて行ってね。)一人留守番しながら食べるロケ弁。
豪華ではあっても、それはあまり美味しく感じられなかった。

寝室に控えていた衣装さんとのお話も尽きた頃、午後になって刑事役の羽場裕一さんがお出ましになった。
この羽場さん、とても気さくな良い方で、あるじの身の置きどころない心情を察してか、しばし話し相手になって下さったのだった。

PTAの集まりが終わり、学校から帰って来た家内は、撮影中のために家に入れず、ロケバスの中でロケ弁を食べたという。しかし、最後には一緒に羽場さんとお話できたし、この場合そっちの方がお得だったような気がする。


なにはともあれ無事撮影も終わり撤収となったのだけれど、今回のお礼は現金で頂いた。いろいろ気苦労はあったものの、やはりキャッシュはありがたい。
(ちなみに、「お家賃の半分程度」が相場だとか。)

余談ながら、例の暗幕の設置作業中、ウチの子が育てていた教材のミニトマトの鉢を、スタッフが転がしてしまうというアクシデントも。(学校から帰った息子の、「トマトが落ちてるぅ〜。」の一言で、福沢諭吉さんが一枚増えました。)
その瞬間、ウチのミニトマトは日本一高価な値が付いたのだった。


しかし、たかだか六・七年前の出来事なのに…。まるで夢だったかのように実感がない。(コロッと忘れてたくらいだから。)

特殊な状況に置かれた時の記憶というのは、案外そんなものなのかもしれない。

今じゃ壁紙も汚れて、ペンキも剥がれだしているし…。
もう、こんなお話はやって来ないだろう。
 
8_19senniti
 
 
 
 
よく見ると
繊細な千日紅の花。
 

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2005/09/02

撮影現場その2

それは、いつも「ピンポ〜ン!」というインターホンの音から始まる。

突然の依頼は、最初の撮影があってから数年後のことだった。
最初があまりにもアッサリと済んでしまったので、何も考えずに今度もOKしてしまった。

しかし、前回は主人公の訪問先という設定だったけれど、今回は犯人である主人公のお住まい。
しかも、2時間のサスペンスドラマである。
そんな簡単に済むハズもなかった。

狭い2LDKは大勢のクルーで溢れるばかり。
寝室にはちゃっかりとハンガースタンドが置かれ、結構な量の衣装が掛けられている。
そして、仕事部屋にはライトの支柱や撮影機材が所狭しと並べられた。

なんでも、夜のシーンから先に撮影するとか。
窓という窓には外側から黒い暗幕が張られ、完全に外光が遮断された。
なんのことはない、家中丸ごとスタジオに変身である。

そんな中にいらっしゃったのは、犯人役の根岸季衣さんと、その友人役の大島智子さん。
が、何といっても殺人事件がらみのサスペンスドラマ。
お二人とも役に入り込んでいて、声を掛けるのも憚られるような御様子。

そんな重苦しい雰囲気の中、撮影が始まった。

洗面所には監督さんが陣取り、モニターを覗いている。
「見ますか?」のお言葉に甘えて拝見したその画面。
そこに写っている部屋は、いつも見慣れた我が家とは思えなかった。

さらに撮影が佳境に入ると、女優さん達は台所で包丁を振りかざして「死ぬの生きるの」という熱演を繰り広げだす。
根岸さんが、泣いてすがりつく食品ストッカー(取っ手がタオル掛けになるというスグレモノ)。
そこには、ウチでいつも使っているフキンが写っているのに…。

…その時になって、初めてえらい事になったと悟った私なのだった。
 
8_18sikuramen
 
 
 
新芽を出した
ミニシクラメン。

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2005/08/30

撮影現場その1

中古物件だった今のマンションに暮らして10数年。
コロッと忘れていたけれど、ウチでドラマの撮影が行われた事がある。


…それは、引越して来てそれほど経っていない頃だった。
「ピンポ〜ン!」というインターホンに玄関へ出てみると、ドラマの製作会社の人がいた。なんでも、ウチの玄関先を撮影に使いたいのだとか。

「お、とうとう来たか…。」
そう思ったのは、元の住人から「このマンションで、以前ドラマの撮影があった。」と聞かされていたから。
「別に、いいですよ。」
ミーハーな私は、平静を装いながらもワクワクして応じた。

「若いお笑い芸人さん」を主人公にした、15分程の深夜番組ワクの連続ドラマだとか。
主人公が、長山洋子さん(「でもね…」の演歌でお馴染み)の部屋を訪れるシーンを撮りたいのだという。
当時、まだアイドルをなさっていた長山さんがいらっしゃると聞いて、私のミーハー魂に火がついた。

ところが、当日は脚本が変更されたらしく、期待した長山さんはお留守の設定。
(世の中なんて、そんなもんヨ…。)

しかし、ガッカリするのは早かった。
なんと現れたのは、あの「ウッチャンナンチャン」のウッチャン。
(そりゃぁ、若い芸人さんに違いはないけど。まだ売り出し中とはいえ、私でさえお名前は知っておりましたのに…。)


たったワンシーンだったけれど、やはり撮影に変わりはない。
10数人のクルーが一気に押し掛け、テキパキと撮影を進めていく。

そして、「撤収!」の声にサッさとお引き取りになった後には、お礼の品として御中元か御歳暮だったとおぼしきウィスキーが残された。

…ウッチャンナンチャンが、それからあれよあれよという間に売れっ子になっていったのはご存知の通り。

今から思えば、サインくらいもらえば良かったのに。
「でもね…」、そんな経験は序盤戦に過ぎなかった。

8_28murasaki
 
色付き始めた
コムラサキシキブの実。
 
思えば
ブログで最初にアップした写真も、この実。
季節はめぐります。
 

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2005/08/27

おねだり

小学生の頃、父と母との間でこんなやり取りがあった。
会社が休みの日、買い物に出かけると言う父に、母は「だったら、この子も一緒に連れてって。」と言った。(この子というは、一人ボケっと家にいた私の事)
その時の父の返事が忘れられない。

「一緒に連れてっても、『アレ買って、コレ買って。』と言わないからつまんねぇ。」

それを聞いた私は、「おねだりをされる方が嬉しい。」という父の本音を知って、びっくりした。
言われてみれば、確かに私はおねだりをしない子だった。

でも、それには理由があった。

あれはまだ、小学生にもなっていない頃だと思う。
親戚が集まった新年会の帰り道、時計屋の前で父に呼び止められた私は、ディズニーの腕時計を買ってもらったのだ。
別に、私がおねだりした訳ではなかったけれど、幼い私に断るすべもなかった。

これは一大センセーションを巻き起こしたらしい。
「同じ年頃の子供を持つご近所から、アレコレ言われて困った。」
と、後になって母がこぼしていた。
それは、一つ屋根の下にいる他の兄弟なら尚更で、その矛先は当然のように私に向けられた。

こうして私は、「イイ目をみると後が怖い。」という浮き世のことわりを、幼くして会得してしまったのだった。

実は、私はその他にも子供用自転車を買ってもらっている。
自転車屋さんの前で父に呼び止められる、という同じなりゆきで。
本当にちっちゃな自転車で、すぐに乗れなくなってしまったけれど、この反響は腕時計の比ではなかった。

私のすぐ上の兄は、行動半径が広がる小学校高学年の頃、自分用の自転車を買ってもらっている。(やはり、需要がでてから供給を受ける方がトクだと思った。)
私はといえば、あの件以来「お前は自転車を買ってもらったんだから…。」が付いて回った。

兄の自転車を借りながら、「ボクも自転車が欲しい。」とは言い出せなかった私。(あの時、なぜ「いらない!」と言えなかったのかと、長いこと悔やんだものだった。)
家族の中に、その時の私の胸中を忖度した者がいたかどうかは、はなはだ疑問である。

そして、「私だけが子供用自転車を買ってもらった。」という事実だけが、皆の記憶に残っていく。

その時の気分で、後先の事も考えずに行動する。
そんな父の、江戸っ子気質。
そのツケを払わされる身としては、迂闊におねだりもできなかった。

そして現在。
その気質を、決して受け継いでいないとは言えない私。
自分の中のその因子によって、今もツケを払わされ続けている。

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2005/07/13

懐かしのリュックサック

リュックサック。
懐かしい響きだけれど、今でもその名で呼ばれているのは嬉しい。
てるてる坊主を吊るして、待ちに待った遠足の日。
目的地に着いて、それを開けるのが楽しみだった。

そして、遠足と言えばお菓子はつきもの。
プリントには「おやつは○00円まで。」とか書いてあって、友達と一緒に買い出しに行ったものだった。

当時はスーパーマーケットが登場したばかりの頃。
何とか予算内に納めようとヤリクリするのは、ちょっと大人になったようで嬉しかった。


あれは、何年生の時だったろうか。

待ちに待ったお弁当の時間、リュックを開けて驚いた事があった。
そこには自分が買ったお菓子の他に、バナナや覚えのないお菓子が入っていたのだ。

どうも母は、子供が予算内で揃えたお菓子の少なさを、不憫に思ったらしい。

しかし、親の心子知らず。
その時、私はちょっとイヤな気分になった。

「せっかく自分で計算したのに…。」

自分が決まりを破っているという後ろめたさ。
自分の努力を水の泡にされたような思い。

なにせ遠い昔の事とて、うろ覚え。
もしかしたら、お菓子はなくてバナナやリンゴ等の果物だけだったのかもしれない。
そして母は、「果物はデザートだからお弁当の内。」なんて言い訳を考えていたのかも。

それよりなにより、高度経済成長の始まりで、末っ子の私の番になって、やっと「好きなものを持たせてやれる喜び」を感じていたのだと思う。

しかし、子供らしい律儀さで「果物はおやつ。」としか思えなかった私には、それが理解できなかった。

いや、本当はね…。
最後の「親の喜び」だけは、うっすらと分ってました。
だから帰ってから文句は言いませんでしたヨ。(たぶん…。)

koboredane
なぜだか今年は
アチコチからこぼれ種が芽を出しました。
左から、ペチュニア、クフェア、
ノースポール、トレニア、ラベンダー。

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2005/06/28

螢雪時代

昔、近所にまだ本屋さんがなかった頃。
月に一度、講談社の「たのしい一年生」を自転車に乗った本屋さんが届けてくれた。

小学校3・4年の頃だろうか。
配達してくれるのが近くにできた本屋さんに変わったのと、それが廃刊になったのと、どっちが先かは覚えていない。でも、それに代わって読み始めた小学館の「小学○年生」。そのどちらも私は楽しみに待っていた。

「少しでも勉強してくれれば…。」という親心だったのだろう。
けれど子供の私は、もっぱらそれに連載されている漫画がお目当てだったのが心苦しい。

学年別の月刊学習雑誌とでも呼べばいいのだろうか。
この、「たのしい○年生」と「小学○年生」。
どちらかを読んでらした方は多いと思う。

だから、中学生になって学研の「中1コース」を読み始めたのも、ごく自然のことだった。
それは同級生も同じで、旺文社の「中○時代」か、この「中○コース」の読者という子が結構いた。

各学科別に、要点が色刷りでまとめられた小冊子が付録に付いてたりして、試験前には随分お世話になったものだ。
その他、連載されていたジュブナイル小説も面白く、それで小説を読む楽しさを知ったような気がする。

高校生になっても、この旺文社と学研の勢力図は変わらなかった。
兄は「『高○コース』の方が印刷がキレイでカッコイイ。」と言っていたけれど、それは私も同意見。(きっと、「高○時代」は「中身で勝負!」がポリシーだったのだろう。)

ところが「コース」派だったその兄が、高三になった時、いきなり「螢雪時代」を読み始めた。(「高○時代」は高三だけ「螢雪時代」ですもんね。)

何という節操の無さ。

その変節をなじる私に、兄は「『螢雪時代』の方が権威がありそうじゃない?」と言い繕った。(なるほど…。オシャレじゃない分、確かに御利益がありそうな威厳があった。)
そして、その言い訳はいかにも受験生の本音らしく、意外な説得力で私の心に響いたのだった。


そんな経験から、ウチの子にも「時代」か「コース」を買い与えようと本屋さんに行って驚いた。小学生向きの学習雑誌はあったけれど、なんと「時代」も「コース」も見当たらない。

店員さんに聞いてやっと見つけたのは、テキストコーナーの隅にあった「螢雪時代」一冊だけ。
かつては学年別学習雑誌だけで、一つのコーナーを占領していたのに…。

通信教育が急成長したり、塾通いが珍しくなくなった現在。
学習雑誌の付録で勉強する子は、もういないのかもしれない。

6_04zefiransasu
 
 
 
………………………………………………
ちなみに「コース」は99年3月号で、
「時代」はそれより前に休刊になったそう。
かつての読者としては寂しいかぎりです。

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2005/06/07

真空管

5_26gazania私の父も兄弟も、機械いじりが好きだったけれど、さすがにテレビまでは修理できなかった。(あっちこっちいじくって微調整するのは好きだったけれど。)

そうなると電器屋さんの出番となる。

茶色いテレビの裏ブタを開けると、ブラウン管の下にはホコリを被った真空管が、何本か鎮座ましましていた。
直径3〜4cm、高さ5cmほどのガラス管。子供の目には、それはちょうど透明な電球のように見えた。

「なんで電球がテレビの中にあるの?」
それはいくら説明されても理解できず、それゆえに、いかにも電子機器らしい威厳を持っていた。

しかし、その威厳も長くは続かなかった。

その頃すでにラジオはトランジスタ。やがてそれはテレビにも及んでいき、新しいテレビの裏ブタが開けられるたびに、ブラウン管は大きく、その他の部品は隅に押しやられて小さくなった。

基盤の上にハンダ付けされた、申し訳程度の小さな物体。
それが、あの真空管の代わりだなんて…。

そのトランジスタ自体も、やがて基盤の中に埋め込まれるほど薄くなる。
そして、現在の集積回路になっていく。

子供の頃、兄が読んでいたSF小説を借りた事があった。
アリゾナの砂漠の地下に、巨大なコンピュータ(その頃は電子頭脳なんて言われていた)施設が作られる。やがて、それが独自の知能を持ち始めて…。というストーリーだったけれど、その集積回路は真空管で作られていた。

透明に輝く無数の真空管の中を、エスカレーターで地下に降りていく描写は圧巻だった。
でも、今自分の足下にうずくまっているパソコンのメモリは1Gバイト以上。
もしかしたら、あの小説に描かれていた真空管の数よりも多いのかもしれない。

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2005/05/03

馬のパン屋さん

05koinobori子供の頃、「チンドン屋さんが来る!」というのはビッグニュースだった。
誰かから、「どこそこにいる。」と聞けば、何をおいても飛んで行ったものだ。

何をするわけでもない。ただ、練り歩く後をついて行くだけ。
それでも満足だったのは、これといった娯楽もない日常の中で、いっとき別世界に浸る事ができたからなのだろう。時代劇の衣装をまとった人達を間近で見て、賑やかな演奏を聴くのは、なかなかの高揚感があった。

その頃楽しみだったものでは、紙芝居なんかもそう。
道具一式を、自転車の荷台に括り付けた紙芝居屋さんが来ると、子供達が集まってくる。握りしめた10円玉を差し出して、あんずジャムを付けたウェハースをもらい、それを食べながら観るのだった。

ただ、いつも来てくれるわけではない。
だから、時々行商の人達がやって来るのさえ、楽しみの一つだった。
「富山の薬売り」のオジサンからもらう、オマケの紙風船。そういったものが、本当に嬉しかった。
とにかく、何か「いつもと違う事」に出会いたかったのだ。


そんな中でも、一等賞は「馬のパン屋さん」だろう。
結局2、3回しか来てくれなかったけれど、それだけに一番待ち焦がれていた。

蒸しパンの屋台を引いた白馬は、それはそれは美しくて、幻想的でさえあった。蒸しパン自体はそれほど美味しいものではなかったけれど、その白馬を見られるだけで充分だった。

子供の頃は何でも大きく見えるもの。しかし、それを割り引いて考えても、ポニーではなかったと思う。なにせ、見上げる程の大きさだったのだから。
まだまだ、交通量も多くない時代だったからこそ、そんな大きな馬が住宅街の路地まで来られたのだろう。

綺麗なものや、豪華なものは、テレビでしか見られなかったあの時代。
子供にさえ畏敬の念を抱かせるような、あの神々しい美しさは今でも忘れられない。

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2005/04/20

にかい屋

331turu子供の頃お小遣いをもらうと、アイスクリームやお菓子を買いに、よく近所の「にかい屋」に行ったものだった。
そのお店は、食べ物の他にも一帖(20枚)10円のわら半紙を売ってたりして、子供だった私が欲しいものは大概手に入れることができた。

絵を描くのが好きだった私は、普段はザラ紙の一面にしか印刷されていないチラシの裏に描いていたから、買って来たわら半紙に絵を描くのは、ちょっとした贅沢でもあった。

駅前まで行けば商店街がある。しかし子供の足では距離があるし、一人で行くのは勇気が要った。そこへいくと、住宅街の中にポツンとあるそのお店は、格好のロケーションだったのだ。

そこなら親も安心だったのだろう。「にかい屋に行ってくるね。」と言えば、それでOKだった。子供同士連れ立って行く時も、「にかい屋に行こう。」で通じていた。

だから、大きくなってから、その商店の屋号が「にかい屋」ではないと知った時の驚きは大きかった。

なんと、「にかい屋」とは「二階屋」の事だったのだ。
当時の住宅は殆どが平家建て。その中で唯一の二階建てだから、二階屋と呼ばれていたのだと言う。

そう言えば、ちょっと離れた友達の家に行った時、新築の家の階段を物珍しく眺めた覚えがある。小学校の広い階段は見慣れていたけれど、三尺幅の民家の階段を見たのは初めてだった。

近所の家が建て替えられる度に、二階建てになっていくのはその後の事だ。それはちょうど、高度経済成長の時期と重なる。
なにか、世の中全体が豊かになっていくのを肌で感じていた。オリンピック開催や、それに合わせて開通した新幹線を、子供心にも誇らしく思ったものだった。

そして、景気が良くなるにつれ、チラシもツルツルの紙にカラーの両面印刷が多くなった。
ザラ紙で裏が白いチラシを探すのも、だんだん困難になってきて、とうとう私が諦めた時。それは、わら半紙に絵を描く事を、さして贅沢とも思わなくなった頃だったのかもしれない。

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2005/03/13

貸本屋さん

それはもう、記憶から欠落していたけれど、「少年マガジン」等の漫画雑誌隆盛の前に、確かに貸本屋さんの時代があった。

その頃、本屋さんは電車かバスで行く大きな街にしかなくて、私が住んでいた町にはなかった。でも、貸本屋さんならあった。今はやりの「懐かしの」昭和30年代の町並みにあるように、当たり前のようにそこにあった。

土間の壁一面の本棚から好きな本を選び、帳場にちょこんと座っているおばちゃんに渡す。そして、登録してある自分の名前を書いて、借りてくる。ちょうど図書館と同じシステムだ。
そこにあった漫画本もハードカバーで、貸し出される事を前提に、丈夫に作られていた。なかには「読者の声」のコーナーがあるシリーズ本もあったりして、「0号の何々が面白かった。」なんて投書が載っていたのだから、いかに貸し本のルートが確立していたかがわかる。

私が少し大きくなった頃、バス通りに新しい本屋さんができた。(そこで、私と漫画雑誌とのお付き合いが始まるのだけれど。)ただ、最初は駅の売店のスタンド売りのように、新刊の雑誌はごく一部で、大部分は貸し本だった。(書店として経営が成り立つかどうか、様子を見ていたのだろう。)
そこは、今までのように名前ではなくて、登録すると番号が割り振られた。(自分の番号が106番だったのを思い出してしまった!)IPアドレスのようなもんだろうか。

その新しいお店ができた頃、昔からあった例の貸本屋さんが店じまいすることになった。
在庫一斉処分ということで、本棚にある漫画本を安く売ってくれるという。
何冊か選び、おばちゃんの所に持って行くと、「これが00円だなんて…。新品だから得よ。」と、悔しさと諦めが混じったような、複雑な目で私を見て言った。それは、いつものやさしい顔ではなくて、自分が何か悪い事をしてしまったような気にさせられた。
もしかしたら、それは私が初めて見た「大人が本心を見せた時の顔」だったのかもしれない。

一方、新しくできたお店の方もだんだんに新刊の本が増えていき、いつの間にか普通の本屋さんになっていった。それにつれて私の方も、漫画本は買うのが当たり前になっていく…。

そして、大人になってその前を通っても、昔そこが貸本屋さんだった事など、記憶の底に沈んでしまったのだった。
(昔の事って、どうしてこう、思い出すと切なくなるのだろう…。)

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2005/03/11

少年マガジン

前回、『少年マガジン』から始まった、私の漫画遍歴を書いたけれど。
なぜ、10代の終わり頃から少女漫画に移行したのか考えてみた。
そして、思い出した事があった。

高度経済成長まっさかりのあの頃。定価50円の時代がけっこう長く続いたんだけれど。それが60円になり、70円になったあたりから、どんどん値上がりしていく…。そして、それにつれて読者の対象年齢もどんどん上がっていった。

当時の連載漫画『丸出だめ夫』は小学生だったし、『ハリスの旋風』の石田国松は中学生。それが、『巨人の星』の飛雄馬が小学生から大人になるように、大人を主人公にした作品がどんどん増えていった。さらに、革新的な問題作も次々発表されて…。こちらとしては、自分の成長とともに内容が高度になっていくのだから文句は無い。夢中になる訳だ。

しかし、いつからか「あれ?」と思うようになった。
時は「サイケデリック」全盛の頃。「イラスト」なんて言葉も、その頃から言われ出した。『少年マガジン』の表紙も、横尾忠則さんのイラストになったりして、完全に「大人」の鑑賞に耐える内容になっていた。そうなるともう、「少年」と言うには無理が出て来るし、それは単なる冠でしかなくなっていった。

「このまま、大人向けになっちゃっていいの?」一読者でさえそう感じるのだから、出版社側も対応策を考えていたのだろう。小学校低学年向けの『テレビマガジン』を創刊したり、青年向けの『ヤングマガジン』が創刊されたり…。『少年マガジン』自体も、軌道修正が始まったように感じた。

でも、今さら子供向けの漫画を読んでも夢中になれないし、かといってミョ〜に色っぽい、大人向けのコミックにも惹かれないし…。そうなると、自分が夢中になっていたのは、やはり「少年」の冠だった事に気付いた。(同時に、自分がもはや「少年」ではない事にも…。)そして、少年漫画がそんな変換期を迎えた頃、急に「醒めて」しまった。

だからこそ、当時少女漫画にまだ残っていた、古き良き時代の臭いを感じたのだと思う。
あるいはまた、少女漫画のカオスをも飲み込む、度量の広さに惹かれていったのかもしれない。

それはもう、漫画がコミックへと成熟するための、時代の必然だったような気がする。
そして、それは対象年代別にキチンと住み分けがなされている、今のコミック雑誌を見てもそう思う。
 
magajinn1 magajin2
 
ホームページの方で既出の画像ですが。
左から、1964年1号定価は40円。
同年45号定価50円。特集は「東京オリンピック」なのが泣けます。

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2005/03/09

漫画少年

文学青年ではなかった私も、漫画少年ではあった。

さすがの私も、あの月刊『漫画少年』は読んだ事はない。
けれど、長兄が光文社の月刊『少年』を読んでいたのは覚えている。

その当時の私は幼くて文字が読めなかったのだろう、連載されていた『鉄腕アトム』や『鉄人28号』を「眺め」ていた記憶がある。それは、なにか「お兄さん」が読む本のようで、ちょっとした憧れでもあった。

実際に自分が読みだしたのは、『8マン』が連載されていた頃の『少年マガジン』から。50円玉を握りしめて本屋さんに通い、『紫電改のタカ』や『黒い秘密兵器』等、当時連載されていた漫画を夢中で読んだものだった。

ちばてつやさんの漫画で言えば、『紫電改の〜』から、『ハリスの旋風』『オレは鉄兵』を経て、『あしたのジョ−』の前半あたりまで。その間には、あの『巨人の星』もございました。
さらに、後発の『少年ジャンプ』も創刊号から。(最初は2週間に1度の隔週刊だったから、なんとかお小遣いで買えた。)

また、今では少女漫画を男の子が読むのも珍しくなくなったけれど、その当時から『少女フレンド』もチェックしておりました。楳図かずおさんの『ママがこわい』から、『まだらの少女』『べにぐも』あたりまで。

その後、成長するにつれ増してきた財力にものを言わせ、『花とゆめ』は創刊号からの読者。あと、『別マ』も読んでいて…。(漫画好きの間では、『別マ』を読むのが一種の流行だった。)考えてみれば、その頃がピークだったような。(『ポーの一族』に心酔してたのはその頃。)

今は「コミック雑誌」の方が通りがいいようだけれど、私の頃はまだまだ「漫画雑誌」と呼ばれていた。そして、これだけお付き合いが古いと、数々の名作の連載開始にもけっこう遭遇している。
あの『ガラスの仮面』もそうだけれど、『少女フレンド』派の私が、なぜか『マーガレット』の『ベルサイユのバラ』の初回を読んでるのも不思議。(最初っからカラーページだったのは、さすがでございます。)

そうやって、一時少女漫画に移行したかに見えた私の漫画遍歴も、『Dr.スランプ』が始まった頃には『少年ジャンプ』に戻ってたりして…。

それが細々と続いていたのだけれど。
いつしかそれも、程なく終焉を迎えたのでありました。(と・お・い・目)
 
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1966年 5月15日特大号 定価70円
表紙は『ハリスの旋風』
この号から『巨人の星』の連載が始まった。
 
 

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2005/02/03

手乗りインコ

私には時々見ていた夢がある。それは、こんな夢だ。

普段気がつきにくい押し入れの中とか床下に、金魚や小鳥を飼っているのだけれど、すっかり忘れている。そして、ある時急にその事実を思い出す。「あ!いけない。」と慌てて見てみると、放っときっぱなしだったのに、ちゃんと元気にしていて、「あぁ、良かった。」と胸をなで下ろす…。

何でこんな夢を見るのか、私には心当たりがある。昔、手乗りインコを飼っていた事があるのだ。
まだヒナのうちから飼い始め、一人前になる頃にはすっかり人に慣れていた。肩の上にとまったり、頭の上に乗ったりして、たいそう可愛かったが、気性はかなり激しかった。ひとしきり遊んだ後、鳥カゴに戻そうとすると、嫌がってめちゃくちゃに手を噛む。それがまためっぽう痛かった。

それでも一番お相手をしたからなのか、いつから